スサノオの足跡⑪ 銅鐸は仏教用具ではなかったか?(佐藤達矢 稿)

佐藤達矢稿

スサノオの足跡⑪ 銅鐸は仏教用具ではなかったか?

旧出雲王国の跡から出土する銅鐸。何に使われたものなのかよくわからず、長らく古代史上の大きな謎とされていましたが、最近では一種の祭祀具であったという見解が定着しているようでもあります。

が、私はこの銅鐸もまた、巴型銅器などと同じく「仏教徒であることを証明するもの」ではなかったかと考えます。以下、その理由をご説明して参りましょう。

大元出版の本によりますと、古代出雲王国はインドから来たドラヴィダ人によって建国されたということです。いつ頃のことなのかはっきりしませんが、おおむね紀元前400年くらいの年代で、これはお釈迦様の生存時の年代とほぼ一致します。

お釈迦様の死後、すぐに釈迦国は滅ぼされ、釈迦族は四散して逃亡します。このとき、はるばる日本まで逃げてきた釈迦族がいたのかもしれません。

また、銅鐸は出雲国特有の文化でもありますが、福岡県糸島市にあった伊都国や四国などでも発見されています。(四国の銅鐸のことは野中昇さんに教わりました。野中さんありがとう!)。

出雲国から離れた場所でも銅鐸が見つかるということは、この銅鐸が一種の身分証明書のような役割も果たしていて、墓に銅鐸を入れることでその人が仏教徒であること、出雲国の出身であることを表していたのではないかと思えるのです。

さらに「出雲王国とヤマト政権/富士林雅樹/大元出版」という本の記述によりますと、銅鐸は元々、編鐘(へんしょう)という打楽器で、徐福が来日した時に献上品として出雲王家に伝えたものだということです。

この編鐘という青銅器は小型ながら、現在の仏教寺院で使われる梵鐘とよく似た造りになっており、やはり仏教用具として使われた可能衛を感じさせるものです。出雲王家ではこの編鐘をモデルに独自のデザインを施して銅鐸へと変化させたようです。

銅鐸の変遷の歴史を見て行きますと、もともとは小型で、中に舌(ぜつ)という金具が入っていて、音を出す目的で使われていたことは明らかです。それが出雲に伝えられてから徐々に大型化し、デザインも出雲特有のものになりました。

・・・ということは、銅鐸はもともと、現代の仏教寺院で使われている梵鐘のような目的で作られ、時刻を知らせる目的で一日に何回か鳴らされていたものが、徐々に象徴的な意味合いが強くなり、強い権威を持つ者ほど大きな銅鐸を持つようになった、と考えられるのです。

舌のついていない銅鐸が多く出土するのも、この器具が楽器から祭祀具へ、宗教的権威の紋章のような意味合いに変わっていったことを示しています。

そして、ある時期からこの銅鐸がパタリと出土しなくなるということは、この器具を使った祭祀が禁じられ、違う宗教様式を持った民族に支配されたことを示しています。

大元出版の本の記述のように、銅鐸は徐福が伝えたものだとしますと、このデザインの変形過程にも複雑なものがあるように思えます。

徐福は道教の方士でしたので、この銅鐸を道教祭祀に使っていた可能性があります。ただ、徐福の時代には銅鐸は小さなカウベルのようなものであったのが、巨大な銅鐸へと変貌を遂げました。その背景には、徐福が出雲国王と副王を暗殺したという悪行の影響が感じられます(やはり大元出版の本に書かれていることです)。出雲人は徐福の伝えた様々な知識技術の恩恵を受けながらも、徐福の使っていた通りには使いたくないという複雑な心境があったのかもしれません。

・・・いずれにしろ、加茂岩倉遺跡等に大量の銅鐸が埋納され、出雲人が銅鐸を捨てねばならない時が来ました。私の推測通りに銅鐸が仏教徒の証だったとしたら、この時多くの出雲人が泣く泣く仏教を棄教させられていたことでしょう。

お釈迦様は一切の文字経典を残さず、仏像の製造も許さず、言葉による教えのみを最上のものとして布教されました。それゆえにお釈迦様の教えの跡というのは証拠として残らず、一般的には、日本に仏教が伝えられたのはずっと後世のこととされています。

しかし、現在仏教公伝として歴史書に書かれてある仏教というのは大乗仏教であり、これはお釈迦様の教えではありません。内容的には、ほぼ別の宗教です。

お釈迦様の本来の教えは、お釈迦様の入滅後間もない時期に、早くも日本にまで届いていた可能性があるのです。

先日取り上げました巴型銅器もまた、その証拠の一つとして考えられるものですが、今回の銅鐸もまた、仏教とともに伝えられたのではないか?・・・。

そして、さらにもうひとつの証拠として、「六所神社」というものの存在が挙げられるのです。これについては次回、詳しくご説明いたします。

(写真上が編鐘、下が銅鐸)。

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