月の民の足跡④ 夏の禹王と神功皇后 (佐藤達矢 稿)

佐藤達矢稿

月の民の足跡④ 夏の禹王と神功皇后。

 BC2000年頃、中国に「禹」という名前の王様が出現しました。

禹はたいへんな名君で、伝説の夏王朝を起こし、この時代に大規模な灌漑事業を行って民衆を洪水から救うなど、数々の善政を布いたようです。

 しかし、この禹王は漢民族ではなく、西方の異民族の出身であったという説があります。

その頃の中国の西方には「羌」と呼ばれる民族がいたようで、これが後年「月氏」となったのではないかと思われるのです。

 この羌族、「姜族」と書く場合もあり、この姜族の中からは周王朝建国の元勲である太公望呂尚が出ています。

 羌族・姜族は人種的にはチベット系と言われますが、外見上は日本人とよく似た種族であり、遺伝子的にも現代の漢民族よりも現代の日本人に近いようです。中国四川省には彼らの末裔と言われる羌(チャン)族が今も居住していますが、その風貌はまた、日本人と見まがうばかりによく似ています。

 ところで、夏の禹王は羌族でありましたが、これは後年、漢民族が呼んだ名称であり、禹王が当時、自らを何という民族名で呼んでいたのかということははっきりしません。

 名君禹王を生んだ一族として、禹王の後裔が彼らが自らを「禹族」と名乗ったことも考えられます。

そして、この一族が古代の日本に来て「菟狭族」と名乗ったとしたら?・・・。

 そう考えたとき、私の頭にあるひとつの符合が思い浮かびました。

それは「秦氏」の行動です。

 秦氏は日本に初めて灌漑・治水技術を持ち込んだ氏族です。京都の嵐山や大分県宇佐市の薦神社の池などにその治水事業の痕跡が見られるほか、古代に広大な浅瀬であった河内湾を埋め立て、現在の大阪平野にしたという説もあります。

 禹王も灌漑を行って民衆を救った人物でした。禹王の治世時に秦氏も側近としてそばにいて、その治水技術を用いて禹王の灌漑事業を手伝っていたとしたら、・・・。

 禹王の治世より800年ほど下り、秦氏からは秦の始皇帝が輩出して中国を支配しますが、秦はすぐに滅び、秦氏は東方に逃れ、朝鮮半島の辰韓(秦韓)に移住したようです。

そして、神功・応神時代に秦氏は朝鮮半島から九州、豊前・宇佐の地に3万人という大人数で移住してきています。

 このことは、菟狭族と秦氏が人種的に同根、もしくは古くから近縁の間柄であった氏族であり、いつの時代も常に連絡を取り合いながら協力し合っていた仲間同士であったと考えれば納得のゆく話です。

 つまり、秦氏はもともと菟狭族と一緒に古代中国で暮らしていたが、なんらかの原因で菟狭族が先に日本に来て、大分県宇佐市周辺に居住した。その後、朝鮮半島まで逃亡した秦氏は菟狭族を頼り、秦韓の王女であった神功皇后を日本の仲哀天皇の妃として輿入れさせる工作に成功、皇后となった神功の庇護のもとで日本への大量移住に成功した、というわけです。

 こう解釈すると、神功皇后の三韓征伐という故事が、現在一般的に解釈されている内容とはまるで違った様相を帯びてきます。

この仮説をもとに、もう少し菟狭族のことを掘り下げてみます。

大分市野津原町に宇曽嶽という山があります。ウエツフミに記されたウガヤフキアエズ王朝の中心部とされるところで、山頂に宇曽嶽神社という神社があるのですが、この神社の御祭神中に「日向国宇土大明神絵像並びに香取祖師」という聞きなれない神名があります。

この宇土大明神が、実は「禹莵大明神」だったとしたら?・・・。

宇曽嶽神社の真北に豊後国一之宮である柞原(ゆすはら)神社があり、さらにそのほぼ真北に宇佐神宮があります。ウソ神社⇒ウサ神宮という音韻の一致。元の名は同じだったかもしれません。

 そして、宇曽嶽神社から見て東、夏至の太陽の昇る方角には、やはり豊後の国一之宮である西寒田神社があります。西寒田神社の主たる御祭神は「月読命」です。

 そう、菟狭族は「月の民」の一族の末裔であり、宇佐神宮は月の民が秦氏と組んで創建した神社だったのです。

 そして、この地に古代から存在したウガヤフキアエズ王朝とは、「禹伽耶フキアエズ王朝」、つまり禹王の建てた夏王朝を再建しようとして、朝鮮半島(伽耶国)経由でやってきた民族の建てた王朝であることを意味する名前と解釈できます。

 ・・・秦氏を宇佐の地に移住させた神功皇后は、その直前に西寒田神社を訪れ、その奥院である本宮山に登り、その山頂に古代からあった磐座に向かって祭祀を行っています。

 この時神功皇后が行った祭祀とは、おそらくは自分自身のルーツである「月の民」の祖先神に挨拶をして菩提を弔い、今後は自分がこの地を治めるのでご安心いただけるように、という報告と祈願をこめた祈祷であったことでしょう。

 以降、神功皇后は西寒田神社の主祭神の一柱として月読命とともに祀られる存在となり、現在も一緒に祀られています。また、同時に神功皇后は柞原神社、宇佐神宮の主祭神でもあります。

 ・・・こうしてみると神功皇后というお方はどうやら、太陽信仰族であった天孫族から日本国王の座を奪回した「月の民族」の中興の祖だったのではないかという気がしてきます。

 記紀に記された、神功の夫である仲哀天皇の謎の死、出自が怪しい武内宿禰、そして出生に謎の残る応神天皇・・・。これらはすべて、「月の民」の一族ではなかったか?・・・。

 この仮説を裏付けるかのように、日本書紀に記された武内宿禰の母親の名は「菟道彦の女」。また、武内宿禰の子供の一人に「平群木菟宿禰」という人物がいます。これらの名前の中に見られる「菟」という文字は、彼らの出自を表しているものではないでしょうか?

 月の民は禹王の末孫であることの証左として、その子孫たち代々に「ウ」の文字を使い、しかし正体を悟られないように禹の文字を菟と書き変えたのでしょう。なぜ「菟」という文字にしたのか?・・・もちろん、彼らの先祖神である月読命にちなんで、月の菟という意味を込めたのでしょう。  「禹」の文字は「菟」となり、後年は「鵜」「宇」ともなって、出自がわかりづらくなってゆきます。しかし、私はこの「ウ」音はすべて同系列の民族と考えます。ウガヤ王朝、鵜戸神宮、宇曽嶽、宇佐神宮、・・・これらは皆、現在の大分・宮崎県地域に集中しています

コメント

  1. yasukazusasame より:

    記事に出てきます「香取祖師」と香取神宮との関係について、どう思われますか?匝瑳や物部、忌部との関係に興味があります。

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