蘇我氏の正体④ 武内宿禰から蘇我稲目までの系譜(佐藤達矢 稿)

佐藤達矢稿

蘇我氏の正体④ 武内宿禰から蘇我稲目までの系譜

武内宿禰の子供たちは様々な氏族に分かれ、それぞれが別な一派となって行きます。これはもしかしたら、父親は武内宿禰一人でも、母親はすべて違っていたのではないか?とも思えます。古代には貴人ほど複数の妻のいるケースが多かったので、武内宿禰もその例に洩れなかったのかもしれません。

それでは、武内宿禰から分かれた蘇我氏の系譜を見て行きましょう。

武内宿禰の子供のひとりが蘇我石川宿禰。

生まれは河内国石川(現在の富田林市付近)とされ、地名を採って石川と名乗り、さらに宗我(現在の奈良県橿原市曽我町)に大家を賜り居としたので「宗我宿禰」が賜姓されたと言います(日本三大実録より)。
また、「紀氏家牒」という書物によりますと、大和国高市郡蘇我里に居宅があり、それが「蘇我」の由来とされているようです。
蘇我石川宿禰は履中、反正、允恭、安康、雄略天皇の五代の天皇に仕えたようです。

石川宿禰の子供が蘇我満智です。

この蘇我満智は雄略天皇の御代に、現在の財務大臣に当たる「三蔵検校」に就任しています。つまり蘇我氏はこのときすでに、国家の財政を一手に管理し、また、思いのままに使うことができた、と思われます。この時すでに家臣団の中で実力№1だったかもしれません。

そして、蘇我満智の子供が蘇我韓子です。

韓子については日本書紀に逸話が残っています。それによりますと、465年、新羅が百済に侵攻して城を奪い、対馬海峡を抑えて倭国と高句麗の貿易を阻害し始めたことに対して、雄略天皇は蘇我韓子らに命じて新羅を討たせた。韓子らは一時、新羅王を敗走させるほどの戦果を挙げたが、やがて韓子は味方の紀大磐という人物と対立し、大磐の放った矢によって絶命した、と書かれています。

この時の韓子は、四人いた倭国軍大将のうちの一人。蘇我氏はすでに軍事力でも倭国を代表する勢力を持っていたことがわかります。

蘇我韓子の子供が蘇我高麗(こま)です。

高麗は別名を蘇我馬背(うませ)と言い、目立った事績は書き残されていないようですが、高麗という名前から、そして父である韓子が半島ゆかりの名前であることを考えますと、母方は高句麗の有力者の生まれではないかと推測されます。また、馬背という名前、そして高麗(こま)という読み方が駒に通じることから、戦闘用の馬の飼育管理の統括責任者であった可能性もあるかもしれません。蘇我氏は馬とゆかりが深く、この時代あたりから騎馬戦が盛んになって行きます。

そして、蘇我高麗の子供が蘇我稲目です。

この稲目の代になって、蘇我氏は歴史の表舞台に登場してきます。古事記に登場するのはこの稲目だけで、悪名高きその後三代は日本書紀にのみ登場します。

稲目は536年に大臣となり、尾張国の米を都に運ぶなど、やはり財政、資産管理をまかされていたようです。そして欽明天皇に娘の堅塩姫と小姉君を嫁がせ、天皇の義父として確固たる地位を確立します。

この稲目のふたりの娘と欽明天皇の間には、のちの用明天皇、推古天皇、崇峻天皇が生まれており、これらの天皇の治世中、蘇我氏は外戚としての勢力を持ったのでした。

しかしながら、この時期、同時に蘇我氏にとって最大の危機が始まっています。
それが有名な崇仏論争です。

552年、百済の聖王の使者が仏像と経論数巻を献じ、上表して仏教の功徳をたたえました。これが世にいう「仏教公伝」です。

このとき、仏像を礼拝することの可否を尋ねた欽明天皇に対し、「西蕃諸国はみなこれを礼拝しており、日本だけがこれに背くことができましょうか」と答えた稲目に対し、物部尾輿と中臣鎌子が反対しました。「我が国の王は天地百八十神を祀っています。蕃神を祀れば国神の怒りを招くでしょう」という理由でした。

このとき欽明天皇は、稲目が個人的に仏像を礼拝することだけは許しましたが、国家として仏教を祭祀するには至りませんでした。(このあたり、蘇我氏が決して強引に、専横的に仏教を導入しようとしたわけではなく、一臣下としての礼を保ちながら、むしろ極めて控えめな態度でいたことにご注意ください。これは決して謀反人の態度ではありません。)

稲目は仕方なく、小墾田に仏像を安置して礼拝していましたが、折り悪く疫病が起こり、多くの死者が出ました。

尾輿と鎌子はこれを蕃神礼拝のためだとして仏像の廃棄を奏上し、天皇はこれを許します。仏像は難波の堀江に流され、伽藍には火がかけられました。すると、風もないのに大殿が炎上してしまったと言います。(このあたりも、暴虐の限りを尽くしているのは蘇我氏ではなく物部氏や藤原氏のほうです。蘇我氏はむしろ被害者と言えます。)

しかし、これで仏教が完全に排除されたわけではなく、欽明天皇は553年、海中から樟木を引き上げて仏像2体を改めて作らせています。

このあたりには欽明天皇の苦衷がしのばれます。天皇は、本心では仏教を厚く保護したかったのでしょう。しかしながらこの時の宮中は廃仏論一色に染まっており、仏教推進論者は蘇我稲目ただひとりでした。いかに強大な勢力を持つ稲目といえども、圧倒的な多数派の前に動きを封じられていたわけです。

稲目は財務大臣としての職務には熱心で、王辰爾という人物に命じて船の船賦を数えて記録させたり、諸国に屯倉を設置して管理するなど、優れた実務家としての業績を残しています。大臣の名の通り、実際に国家の屋台骨を支えていたわけです。

しかし、仏教受容問題は稲目の代だけでは終わらず、それどころか益々苛烈さを増してゆきます。この抗争は稲目の子供である蘇我馬子と尾輿の子である物部守屋に引き継がれ、やがて物部氏、蘇我氏という古代日本を代表する二つの氏族が相争った結果、どちらも正宗家が滅んでしまうという大悲劇に到りました。しかしながら仏教そのものは滅びず、200年余りも後の聖武天皇による大仏開眼に到り、国家宗教としての確立を見るのです。

宗教というものが社会に根づくまで、さまざまな受難に会って宗教者が大変な苦しみを受けることは古今、珍しくありません。しかしながら蘇我氏ほど、代々の当主が仏教の普及に心血を注ぎ、日本に仏教を定着させた立役者でありながら、現代にいたるまで不当な扱いを受け続けている例を私は知りません。蘇我氏は悪党どころか、むしろ聖者と言っても良いくらいの一族なのです。次回以降、このことをさらに深く論証して行きます。

(系図はウイキペディアよりお借りしました)。

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