真説仏教伝来④ 釈迦族の末裔は伽耶国にやってきた。(佐藤達矢稿)

佐藤達矢稿

真説仏教伝来④ 釈迦族の末裔は伽耶国にやってきた。

 お釈迦様の入滅後まもなく、釈迦国はコーサラ国に滅ぼされ、そのコーサラ国もやがてマガダ国に滅ぼされます。
 この時、多くの釈迦族の人々が殺されました。が、全滅したのではなく、一部は生き延びたようです。

 コーサラ国の首都はアヨーディアーという名前で、お釈迦様の生まれたルンビニとほどちかい地域でした。お釈迦さまが生前、熱心に布教して歩いたのもこのあたりです。

 実はこの「アヨーディアー」という都は古代史上非常に重要な都市で、「阿踰陀(あゆた)国」として韓国の「三国遺事」巻二「紀異」駕洛国記に登場します。この文献によると、AD48年、この国の王女である「許黄玉」という女性が朝鮮半島に興った金官伽耶国の初代王・金首露の妻として渡来、王妃となっています。
 お釈迦様の入滅後、400年前後経った頃でした。

 許黄玉が嫁入りした際、多くの家臣団とともに、彼女の兄が同行していました。この兄は仏教僧で、名前を「長遊和尚」、または「宝玉禅師」と呼ばれていました。

 この長遊和尚、世俗のことには無関心な高僧だったようで、金官伽耶国に来てからも国政には関わらずに伽耶山に籠り、いくつかの寺を建立、仏教の普及に努めたのでありました。

 許黄玉と金首露の間には10人の男児と2人の女児が生まれましたが、長遊和尚はこのうち7人までの男児を出家させています。
 男児たちは七仏寺という、金海の近くに和尚が建立した寺で修行に励み、見事全員が成仏して天に上ったと伝えられています。

 ところが、これには別な説もあります。そしてこの別説が曲者で、この説が真実の史実だとすると日本古代史はたいへんなことになるのです。
 その別説で語られている、金首露王と許黄玉の子供たちのプロフィールは以下のようなものです。

・金首露長男・居登  伽耶国に残る。二代目金官伽耶国王。
・金首露次男 金海許氏の祖。   
・金首露三男 陽川許氏の祖。
・金首露四男 天思兼命・・・信濃の阿智氏の祖。
・金首露五男・玄・・・扶余国に残る。 
・金首露六男・倭得玉(国常立尊)・・・王治(尾張)氏の祖。
・金首露七男・倭仁・・・二代目大王。
・金首露八男・豊玉・・・宇佐氏の祖。
・金首露九男・倭武日・・・大伴氏の祖。
・金首露十男・日奉益継・・・日奉氏の祖。
・金首露十一男・居添君・・・天表春命(阿智祝部)※天思兼命の子            
・金首露二女・美穂津姫・・・大物主あるいは大国主の妃。

 この表は、とあるHP上のブログにあったもので、ブログの主に連絡する方法がないので出典はわかりません。そこには「他文献からの引用」とのみ書かれています。
 この記述が本当であれば、金官伽耶国・金首露王国は日本人の有力な祖先たちの国だったことになります。 
 上表の中に出てくる「天思兼命」という人物は、天孫ニニギとともに日本に降臨したと記紀に記されている人物で、また、高御産巣日神の子であり、天忍穂耳命の妻である万幡豊秋津師比売命の兄とされています。
 すると、最後に出てくる美穂津姫というのが万幡豊秋津師比売命ということになるでしょう。

 これに関連して、「大倭国通史」(井伊章著、近代文藝社、1990年)という本では、許黄玉を豊玉姫と同一人物としています。また、首露王は百済国の建国者・温祚の兄・佛流の子孫イビカが伽耶山に先住していた王の娘・正見母主と結婚して生まれた子供としています。

 残念ながらこの本もまた、この説の論拠となる傍証があまり書かれておりません。あくまでもひとつの仮説として捉えるしかないようです。

 ただ、上の表と井伊章氏の主張を読み合わせると、新たにひとつの仮説が私の脳裏に浮かんできます。それは、

「首露王の息子たちのうち何人かは七仏寺で修行したのちに天に上ったのではなく、日本に来ていたのではないか?」
という仮説です。

また、「彼らこそが日本という国に最初に仏教を伝えた人々だったのではないか?」
という考えも私の脳裏に浮かびました。
これこそが最初の「仏教伝来」ではなかったか?・・・。

 ・・・そう考えてこの表をもう一度ゆっくり見てみますと、その仮説を裏付けるような人名・地名がたくさんあることに気づかされます。

 まず、「倭」という文字のつく人物が3人(金首露王六男、七男、九男)。この三人は当然日本と関わっている可能性があります。また、それらの人物に挟まっている「豊玉」という人物が「豊玉姫」との関連を想起させます。

 そして、彼らの先祖である「佛流」という人物の名前からは仏教が伝播してゆくという意味が感じ取れますし、その子孫イビカと同音の「井氷鹿」という人物は神武東征を助けた人として記紀に登場します。また、「伽耶」という言葉からはブッダガヤ(仏教の聖地で、お釈迦さまが悟りを開いた場所で知られる)を想起させます。
さらに、「正見母主」という言葉からは、仏道の教えである「不邪見戒」(因果の道理を無視した誤った見解を持たない。物事の本質を正しく見る。)という意味が受け取れます。
つまり、首露王の母は仏教徒であった可能性が高いのです。

また、首露王はスロ、あるいはシュロと発音しますが、この名はなんとなくインドっぽい響きがあります。井伊章氏は金首露王を記紀における「高木神」と同一としていますが、さて、どうでしょうか?・・・

確実に言えることは、この金首露王・許黄玉夫婦の一族のありようが、記紀に書かれた高天原の神々の系図と非常によく似ており、合致させても齟齬がないということです。そして、高天原=伽耶国とするなら、天孫ニニギがやってきたのはこの国から、ということになります。距離的には南朝鮮から北九州ですので、この点も無理がありません。

そして、この一族と古代日本の深い関りは、王妃である許黄玉のほうを調べても非常に多くの傍証が見つかるのでした(続く)。

(写真は韓国・金海市の銀河寺にある首露王・許黄玉夫妻の肖像画)。

コメント

  1. K. Akizuki より:

    佐藤さんへ
    伽耶王族と古代日本との繋がりは面白いですね。
    瓊瓊杵尊の子どもたち、火照命・火須勢理命・火遠理命の火も許(ホ)の音訳かも。妻の木花咲耶姫自体が、イザナギ・イザナミの娘であるカヤノヒメの娘とされてますからね。
    そしてイザナギは高霊のイジナシその人という説もあります。
    真偽はともかく、全体として高御産巣日系列の色合いが濃い印象です。

    • 佐藤達矢 より:

      コメントをありがとうございます。先日、宮崎~鹿児島の古代遺跡を回る小旅行をしてきました。鹿児島にはニニギとサクヤヒメの史跡が濃厚に残っており、宮崎はウガヤフキアエズの匂いが濃い・・・。天孫系図の中でもそれぞれの居住していた地域が微妙に異なるような気がしました。ホホデミは高千穂、そして五瀬命は福岡から大分にかけての王だった・・・。かれらを祀る神社の分布図を作るとよくわかると思われますので、そのうち作ってみようかと思っています。・・・イザナギの娘はカノヤヒメ・・・あの鹿屋でしょうか?・・・近くの吾平山陵にも行ってみましたが、御陵というよりは古代人の住居跡ではないかと思えました。古代の鹿児島は高句麗と繋がっていたようにも思えるフシがあり、今後の研究課題です。

      • K. Akizuki より:

        高千穂、宮崎、豊後、豊前を勢力圏とする一族が東征の主体ですね。邪馬台国や伊都国ではない、これこそ投馬国(私説:豊麻国)、瓊瓊杵尊の外祖父高御産巣日系勢力でしょう! 
        大和王権が天照大神を皇祖神とし伊勢祭祀を復活させたのは41代持統帝からで、それまで皇祖神はむしろ高御産巣日神だったようです。(10代崇神帝は天照大神を宮中祭祀から外し、23代顕宗帝の時に対馬のアマテル神と壱岐のツクヨミ神の宣託により対馬から高御産巣日神を招き磐余の地を献上します)
        それはさておき鹿屋野姫(伽耶の姫?)は大山祇の妻ですが、木花咲耶姫の実母かどうかは定かではないようです。早とちりでした。神話にしろ実母の名を隠すとは、何かあるんでしょうな。

        • 佐藤達矢 より:

          akizuki様、ご返事が遅れてすいません。少し前に鹿屋の吾平山上陵に行ってきました。ニニギ御陵の候補地の一つですが、実際に行って見て感じたのは、ここは古代人の住居跡で、ニニギの陵ではなかろう、という印象でした。山上陵という名前とは裏腹に、山の下のほうの水辺にあるのですよ。・・・ニニギよりもっと古い時代のものではないかという感じがしました。この地が伽耶地方と交流があったのは間違いなく、貝の装飾品の分布などで裏付けられます。また、鹿児島におけるニニギの信仰はすごいものがあり、今でもニニギを祀る神社が多く点在しており、この地に来ているのは間違いないと思われます。

  2. yasukazusasame より:

    九州東岸地域の勢力を束ねて、要は(豊の国のウガヤ系、南のニニギ系)中央のイツセ、ミミ系が主流かと。それこそ日向の分散の集約的意味ではないか、と推測する。後の葛城などの系列にも通じる。宇佐も後の朝廷の起源譚となり得る。両氏の見解の接近遭遇とは、面白い!
    Yi Yin

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