蘇我氏の正体⑪ 乙巳の変の時代の真の歴史とは?・・・(佐藤達矢 稿)

佐藤達矢稿

蘇我氏の正体⑪ 乙巳の変の時代の真の歴史とは?・・・

 前回まで、乙巳の変は実際には起こっていなかったこと、蘇我氏三代の馬子、蝦夷、入鹿という人物も存在しなかったこと等をご説明いたしました。・・・すると、日本書紀に書かれた蘇我氏の時代というのは、実際にはどういう時代だったのでしょうか?
 今回は、史実を捻じ曲げて虚飾の歴史を編纂させた藤原氏の足跡を追いながら、真実の史実を追って行きます。

 日本書紀が史実を捻じ曲げて書いたのは、とりもなおさず藤原鎌足の悪行を隠すためだったのですが、鎌足が悪行を起こすようになった伏線は、鎌足が歴史に登場する前から引かれておりました。

 鎌足の義父である中臣御食子(みけこ)は常陸国鹿島神宮の元神官・卜部家の分家でした。
 中臣家は御食子の頃から宮中祭祀の職を得てヤマト王権内に地位を築き、御食子は当時の田村王(のちの舒明天皇)と親しくなり、この二人はそのうちに皇位簒奪の策略を話し合うようになりました。

 このとき御食子が描いた策略というのが、「石川家の大物を一人ずつ誅殺して行けば良い」というものでした。石川家の大物とは、日本書紀に書かれた蘇我馬子、蝦夷、入鹿らのことです。彼らは蘇我姓で記載されていますが、実際には石川家の人々でした。

 御食子は田村王に策略を授けます。「まず、宝姫と結婚しなさい。すると運が開けてくるでしょう。」
 宝姫とはのちの皇極・斉明天皇として国政の指揮を執った人物です。宝姫は神功皇后以来、皇室に隠然たる勢力を持っていた息長氏の血を引いており、宝姫を娶るということは息長家の勢力を味方につけるという意味がありました。

 しかし、このときすでに宝姫は石川武蔵という人物に嫁いでおり、大海人王(のちの天武天皇)という子供まで生まれていました。しかし、御食子は人妻であった宝姫を強奪して奪い、田村王と結婚させたのでした。

 この石川武蔵という人物は石川麻古の孫にあたる人物ですが、石川麻古こそは日本書紀に「蘇我馬子」という名前で書かれた人物です。この時点で中臣家の、蘇我家こと石川家に対する容赦ない攻撃が始まっています。そして、その攻撃にはなんの大義名分もなく、ただ、「田村王を大王にする」という個人的な欲望を達成するための非道極まりない行為であり、やられたほうの石川家には何の落ち度もなく、純粋に被害者であることにご注意ください。

 628年3月、息長家を味方につけた田村王は、石川雄正(石川麻古の子で、日本書紀では蘇我蝦夷と書かれた人物)を呼んで、自分が次の大王になる、と宣言しました。このことは「扶桑略記」という書物に「石川蝦夷が田村王に反対し、兵を挙げた」と書かれているようです。
 石川家は代々大臣の家柄で、当時の王権内でも最強の氏族のひとつでした。この大物一族を滅ぼしてしまわないと田村王の皇位継承はない、と御食子は考えたわけです。

 一方、麻古の弟・境部摩理勢は、「大兄である山背王が後継者である」との主張を曲げませんでした。山背王のほうが血統がより大王家に近く、当然の主張でした。
 しかし、これを聞いた御食子は摩理勢を襲撃し、誅殺します。そして田村王は舒明天皇として即位します。

 それから13年後の641年、大臣・石川雄正の邸宅を葛城皇子(のちの天智天皇)と中臣鎌子が襲い、暗殺します。葛城皇子はこの功により舒明天皇から大兄に指名され、中大兄皇子を名乗ることになります。

 のちに藤原鎌足となるこの人物は鹿島神宮の社家の出身で、元の名を卜部鎌子と言い、中臣御食子の養子として中臣家に入るのですが、この頃は地方役人に過ぎませんでした。

 中臣鎌子は皇極女帝の弟・軽王の宮で舎人となり、軽王の病気の治療を手伝い、女帝との連絡の役を果たすなど、軽王の信頼を得て、同じ部屋に寝泊りするまでになります。

 この中臣鎌子(のちの藤原鎌足)の最初の犯罪は「山背王殺し」です。

日本書紀には「巨勢臣徳太と土師連裟婆の軍が山背王の住む斑鳩宮を取り囲んだ」と書かれていますが、斉木雲州氏は「襲ったのは中臣鎌子ひきいる軍勢であった」と書いています。氏はその証拠として、書紀の中の歌「小林に 我を引き入れ 姦し人の 面も知らず 家も知らずも」という謡歌を挙げています。

 石川派の三輪君という人物が山背王を脱出させますが、山背王は戦いが大きくなるのを嫌って自ら斑鳩寺に戻り、自害します。ここでも、殺した側は大義なき殺人者で、殺された側は殺生を嫌う、真の意味での仏教徒らしい人物だったと言えます。

 このとき、斑鳩寺が焼け落ちたため、上宮法王(聖徳太子という名で日本書紀に書かれている人物)と石川麻古が書いた「天皇記」と「国記」も焼失したようです。(書紀では蘇我蝦夷が焼いたことになっています)。

 641年、石川雄正が死去。書紀では蘇我蝦夷と書かれた人物です。書紀における乙巳の変は645年。このときすでに蝦夷なる人物はこの世にいなかったわけです。

 ところで、田村王は舒明天皇となる前、石川麻古の娘である法提郎女を妻としていました。そして、この二人の間には古人大兄皇子という男児がいました。血統的に時期大王の有力候補です。
 この古人大兄を暗殺しようとした人物がいました。時の皇極天皇です。
 皇極帝は自身の子である中大兄を大王にしたいと考え、甥の軽王を呼び、ふたりは共謀して古人大兄を呼び出し、強制的に吉野へ去らせ、出家させます。 

 645年6月、軽王は即位して孝徳大王となります。このとき、中臣鎌子は内臣となっています。同年9月、孝徳大王と中大兄は謀議して、吉野の宮に中臣鎌子に兵40人をつけて送り、古人皇子とその子を斬らせます。

 ・・・これが、斉木雲州氏が著書「上宮太子と法隆寺」で書いている、乙巳の変の時代の真の歴史です。

 のちに藤原鎌足となり、歴史上比類なき大勢力となった家の初代の人物の正体は、かくも謀略の多い、魔物のようなものだったわけです。日本書紀に書かれた史実とはあまりにも乖離していますが、正統とされる歴史書ほど、えてしてその中身はそういう虚飾に満ちたものなのかもしれません。

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