蘇我氏の正体⑩ 意外なる蘇我氏のルーツとは?・・・(佐藤達矢 稿)

佐藤達矢稿

蘇我氏の正体⑩ 意外なる蘇我氏のルーツとは?・・・

今回から蘇我氏のルーツについて、いよいよその正体を明らかにして行きます。
蘇我氏のルーツについては様々な説があり、渡来系であろうという考え方が一般的ですが、斉木雲州氏の説では、蘇我氏の祖先はなんと、「高倉下」であると書かれています。

高倉下(タカクラジ)と言えば、記紀において神武天皇を救ったとされている人物で、神武東征の戦いの際、敵の毒霧攻撃を受けて昏倒し、瀕死の状態になった神武天皇の前に忽然と現れ、神剣「布都御魂」の霊力を用いて神武天皇を蘇生させ、勝利に導いた立役者として書かれています。この人物がどうして蘇我氏の祖先なのでしょうか?・・・

高倉下という人物は、記紀においては高天原から派遣された武将であり、劣勢の神武軍を見かねて高木神が武御雷神を救援に向かわせようとしたところ、武御雷神は「私が行かずともこの剣があれば大丈夫でしょう」と言って布都御魂を高倉下に授け、高倉下が神武救援に駆けつける、というストーリーになっています。

高倉下については「高」の文字に高句麗との関係が感じられ、布都御魂という剣もまた、中国から高句麗経由で伝わったと思われる逸話がいくつか残っています。

また、出雲地方に多い、方墳という形態の古墳も高句麗方面から伝わっているようでもあり、高倉下が高句麗出身の人物であったなら、蘇我氏は高句麗にルーツを持つことになります。

斉木雲州氏は同時に、蘇我氏を日本の名門である紀伊国造家の子孫であるとし、その家の始まりがヤマト政権の初代大王の弟・高倉下であったと書いています。

斉木氏の言うヤマトの初代大王とは神武天皇ではなく、徐福の孫にあたる天村雲命という人物です。天村雲命は出雲国からヤマトに入り、磯城王朝を興した人物ですが、この人物の行跡が記紀では神武天皇という架空の人物の行跡と置き換えられている、と、斉木氏は主張しています。

斉木氏はまた、高倉下は西出雲王家・神門臣家の大屋姫の子息でもあったと書いています。
そして、ヤマト政権成立の時、国造を勤めた、とも。

そして、高倉下より何代か後、この紀伊国造家に武内宿禰が生まれます。

武内宿禰は、記紀においては一人の人物のように書かれていますが、宿禰という名称は家柄を示す一般名詞であり、個人名ではありませんでした。武内家には武内太田彦、武内名柄ソツ彦、武内ツクといった人物がいたようですが、彼らの行跡が一人の人物の行跡のように、記紀ではひとまとめにされているようです。

武内家はまた、蘇我氏をはじめ、巨勢氏、平群氏、石川氏、葛城氏等の本家筋でもあり、古代史上きわめて重要な家柄なのですが、なぜかいくつもの分家に分かれ、それぞれの家が別の歴史を刻んで行きます。この武内家から分かれた分家の出自についてはその正確性を疑う意見も多く、本当にそれぞれの分家が武内家と繋がっているのかどうかは微妙なところもありますが、斉木氏はこれを否定しておりません。

武内宿禰と比定される人物のひとり、武内太田根は出雲国に赴き、出雲国王の娘と結婚します。以降、蘇我家でも代々の妻を出雲王家から迎える、という習慣が長く続きました。

そして、武内太田根の子孫・若長の時代に越前国造家となり、越前国・三国に拠点を構えます。この若長の時に初めて蘇我氏を名乗ったようで、以降も出雲王国本宗家の富家との婚姻を繰り返し、蘇我家と富家はほとんど同族と言って良いような濃い血縁関係を築いていました。

ある時、蘇我家には後継ぎが振姫という女児ひとりしかいない、という事態が生じました。
蘇我家は富家から彦太殿という男性を振姫の婿としてもらい受け、三国で振姫と結婚式を挙げた彦太殿は以降、オホド君と呼ばれるようになります。この人物こそが後の継体天皇です。

九頭竜川の河口に三国港があり、近くには宮津港や敦賀港といった古くから開けていた貿易港がありました。蘇我氏は朝鮮半島につながる貿易の利権を独占し、特に、北陸地方で産出されるメノウや琥珀、翡翠といった宝石を加工販売することで、古代史族の中でもずば抜けた資産力を蓄えるようになって行きます。

継体帝を輩出した頃の蘇我王国の領土は現在の新潟、富山、石川、福井県、そして滋賀、岐阜県と京都府の一部をも加えた広大なものとなっており、もしかしたらその勢力は当時のヤマト政権を凌ぐほどのものだったかもしれません。

その頃、ヤマト王権では深刻な王位継承問題が起こっていました。仁賢大王、武烈大王が相次いで没し、後継ぎがいない状況が続き、支配力の弱まったヤマトを見限って北陸のオホド大王に守ってもらおうとする人々が増えて行きます。

困ったヤマト王権は、苦肉の策として、このオホド大王をヤマトの大王として迎え入れるという奇策に出ます。かくしてヤマト王権と北陸の蘇我王国は合体し、畿内から北陸、山陰(旧出雲国)まですべてを統括する、日本でも過去最大の版図を持つ巨大国家が成立します。時に西暦507年。蘇我王朝の誕生です。

このことが記紀においては、仁徳王朝が続いていたように見せかけるため、さまざまな粉飾が施されているようです。継体帝は応神天皇の五世孫であるとか、武烈天皇が悪行の限りを尽くしたとか、継体帝が正当な後継者であることを必死で説明するような文章が並んでいますが、斉木氏はこれらのすべてを否定しています。継体帝はそれまでの大王家とはほとんどつながりがなく、このときから大王家は別系統になったと考えて良いと思われます。

もっとも、(あくまで斉木氏の説を信用するなら、という仮定での話ですが)、継体帝はその先祖に高倉下を持っており、高倉下は神武天皇の出身である高木神家、アマテラスの家柄なのですから、王統の系譜はここで正規の神武皇統譜に戻ったとも言えます。
また、継体帝の出自は出雲王家にあり、蘇我家を継いだとはいえ、血脈としての継体帝は出雲王家・富家の血を引く人物です。この意味からも継体帝が大王となったことは、日本最古の先住日本人の家柄に王位が戻ったということであり、喜ばしいことと言えましょう。

そしてわれわれが注意しないといけないのは、教科書に書かれている蘇我氏の時代というのは、実は継体帝以降の「蘇我王朝」の歴史であり、大臣として存在したと記紀に書かれている蘇我馬子、蝦夷、入鹿はいずれも存在せず、そのかわりに蘇我家は大王家として存在していたということです(この部分については私の以前の投稿をご参照ください)。

継体帝は仁賢大王の娘・手白香皇女を后とし、この二人の間に生まれた広庭皇子は後の欽明大王となります。こうして仁徳王朝と蘇我王朝は合体して一つの血筋となりました。その意味では、日本の歴史はやはり「萬世一系」と言えるのかもしれません。

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