蘇我氏の正体⑦ 聖徳太子という虚像(佐藤達矢 稿)

佐藤達矢稿

蘇我氏の正体⑦ 聖徳太子という虚像

前回まで、「乙巳の変はなかった」、「蘇我氏という大臣家も存在しなかった」という説を御紹介してきました。今回は「聖徳太子不在説」をご紹介しましょう。

この説自体は古いものではなく、大山誠一というお方が平成11年に「聖徳太子の誕生」(吉川弘文館)という本で発表していますが、それを嚆矢として何人もの人が聖徳太子不在説を提唱しています。さて真相は?・・・。

結論から申しますと、「聖徳太子」という名前の人物は存在しませんでしたが、それに比定される人物は存在した、と思われます。斉木雲州氏はその人物を「上宮太子(かみつみやたいし)」と呼んでいます。このお方が後世に「聖徳太子」と呼ばれた人物らしいのですが、それでは聖徳太子は実在していたのかというと、伝えられている太子の業績と実像はかなり違っているようで、いわゆる「超人的な頭脳と能力を持ち、十七条憲法や官位十二階を定めて律令国家の建設に大きな貢献をした人物」ではなかったようなのです。

しかし、これは「上宮太子」が無能な人物だったということではなく、当時の政権の力関係を客観的に分析してみた場合、通常「聖徳太子の業績」として語られることのほとんどが、太子ひとりの手によって行われたことではなく、むしろ、時の天皇や、蘇我氏(と記紀で呼ばれた石川氏一族)の手によって行われたと考えられる、ということです。

記紀においては蘇我氏を徹底的に悪人として描いていますが、そうするためには蘇我氏の業績をだれか違う人の業績として書き替える必要がありました。そこで聖徳太子という架空の天才が上宮太子をモデルにして作られ、ご丁寧にも「厩戸皇子」という、まるでキリストの再来を思わせるおめでたい名前に変更され、神のごとき業績を残した人として、「聖徳太子」という、これまた立派なことこの上ない名前をつけられて描かれたわけです。

記紀において旧約聖書の影響が所々に見られる、ということはまた、多くの歴史学者によって指摘されていますが、そのうちもっとも有名なのは、「アマテラスから神武天皇にかけての系図」が、旧約聖書の「アブラハムからヨシュアにかけての系図」とそっくりなことで、親子関係や兄弟の数などが偶然の一致では済まされないほど酷似しており、これはもう、記紀は旧約聖書の型紙を用いて天孫の系図を創作した、としか判断しようのないものです。

これに続くのがこの、「上宮太子をイエス誕生の逸話と結びつけ、権威付けを図った」という疑惑であり、この場合は蘇我氏=悪人説をより確固としたものにするためにイエスの逸話が織り込まれており、われわれは言葉の持つイメージに騙されないように、ウソと真実をよくよく見極めなければなりません。

では、聖徳太子が行ったとされる一連の業績が実際にはだれによって成し遂げられたものなのか、ということを、斉木雲州氏著の「上宮太子と法隆寺(大元出版:2020年)の記述から見て行きましょう。

まず、日本における仏教の普及ですが、日本において仏教を最初に奨励した大王は聖徳太子ではなく用明天皇(聖徳太子の父)でした。
用明天皇が鞍部多須奈という人物に命じて、当時の宮殿の東方の南渕という場所に建てたのが坂田寺という寺で、これがわが国最初の仏殿です。

しかし、587年、廃仏派の物部守屋と中臣勝海らが用明天皇の宮殿を取り囲み、天皇をなきものにしてしまいます。(このあたり日本書紀の記述とはまるでことなりますが、本稿では斉木氏の記述を追って行きます。書紀では用明天皇は病死したことになっています。)
父を殺された上宮太子は大臣の石川麻古(書紀では蘇我馬子)に復讐を訴え、ここに石川家対物部家の対立の構図が出来上がります。
このとき、上宮太子の手勢は竹田皇子、巨勢臣比羅夫、膳臣賀陀夫ら。石川麻古の手勢は阿倍臣、平群臣神手、坂本臣糠手等でした。
上宮軍は渋川(今の大阪府布施市)にあった物部守屋邸を襲います。激しい戦いの末、跡見首赤櫟という人物が守屋を射殺します。時は588年でした。

これが日本書紀に書かれた「蘇我馬子による物部守屋暗殺事件」の真相のようですが、馬子の妻は守屋の妹。つまり馬子にとって守屋は義兄でありました。馬子(石川麻古)はさぞかし苦渋の中での決断を迫られたことでしょう。

また、当時、石川麻古は法興寺という寺を建立中で、金銭的な余裕はなかったのですが、上宮太子に四天王寺建立を頼まれ、その造成にも取り掛かっています。四天王寺建立には、戦勝を祈願した四天王への返礼、という意味がありました。

その後、崇峻天皇が即位しますが、治世4年目に炊屋姫太后(のちの推古天皇)の長男・竹田皇子が暗殺されるという事件が起こります。
そして、今度は犯人捜しを命じられた石川麻古の家臣・東漢直駒が崇峻天皇を殺すという事件が起こります。石川麻古の指示と言われますが、真相は書かれておりません。

廃仏派の物部守屋が戦死したため、仏教への反対者が少なくなり、四天王寺や法興寺は無事完成しました。このときから日本における仏教興隆の時代が始まります。
593年、炊屋姫は推古天皇として即位、補佐役として上宮太子を指名、次の大王にすると約束します。摂政・上宮太子の誕生です。

推古帝自身は仏教を好みませんでしたが、翌594年には太子とともに詔を発布、三宝(仏、法、僧)を興すことを示します。太子が単独で行ったことではなく、あくまでも推古天皇の発布であることにご注意ください。

推古帝の次の大王となると思われていた人物が仏教興隆を宣言したため、諸臣も競って氏寺を作り始めます。
しかし、同年、推古帝は石川麻古を呼び、息子の尾張皇子を次の大王にする、と告げます。

上宮太子との約束が守られなかった、ということです。これを伝え聞いた太子は都から遠く離れた斑鳩の地に宮殿を建て始めます。これが後に法隆寺となるのですが、そこで太子は即位式を行い、上宮大王と名乗ります。

このとき、太子側についたのは石川麻古(蘇我馬子)、雄正(蘇我蝦夷)、山田麿、武蔵とった石川家の面々に加え、巨勢、大伴、阿倍、膳、紀、葛城といった諸臣、加えて秦河勝の名も見えます。

ここに至ってヤマトには二人の大王が誕生し、政権も二つになったわけです。現代ではこの「大王(おおきみ)」という位を「天皇」と置き換えていますので、このときは南北朝時代のように二人の天皇がいたということになります。(続く)

コメント

タイトルとURLをコピーしました