蘇我氏の正体③ 蘇我氏という氏族はどのようにして生まれたのか?
蘇我氏というと、どことなく渡来人のようなイメージがありますが、その家系を遡って行くと武内宿禰にたどりつき、武内家から分家した一族であることがわかります。つまり、蘇我家は日本で誕生した家柄であり、れっきとした日本人の家系であると言えます。
もっとも、この点については異論も多数あり、武内宿禰が蘇我氏の祖先であることを疑う人も少なくないのですが、今のところはっきりとそれを断定する証拠もないようです。
そもそも武内宿禰という人物には謎が多いのですが、この人は日本古代史上の最重要人物の一人です。記紀に記されたその生存期間があまりにも長すぎ、数百年にわたって存命していたように書かれているため、その実在自体を疑う見解もありますが、これはどうやら記紀の書き方のほうに問題があるようで、宿禰という職掌で書いているために歴代の武内家の人物が何人か重複しているようで、一人の人物が超長寿だったわけではないようです。
武内宿禰には、神功皇后との間に子供を成したという説もあり、これが真実なら、彼は応神天皇以降の天皇家の先祖である可能性もあります。
また、武内宿禰からは蘇我家だけではなく、巨勢家、平群家、波多家、紀家など、古代史を彩る錚々たる名家を輩出しています。
そして、武内宿禰その人の出自もまた高貴であり、かつ、複雑です。
記紀の説明では、武内宿禰は孝元天皇の孫、ということになっていますが、彼の先祖の血筋の中には他にも、出雲王家や海部家、物部家などの名家の血が入っているようでもあり、当時としては類を見ないほど様々な名家の血を引いており、それゆえに多くの氏族の支持を集めることができ、神功皇后など歴代大王の側近の地位を確立したようです。
おそらく、初代武内宿禰以降の世においては、武内家と言えば歴代天皇の側近の家柄として、時の為政者の重臣を何代にもわたって務めていたことでしょう。蘇我氏もそうした名門の家柄でした。
しかしながら、武内宿禰の子孫たちは、それぞれの分家ごとに違う道を進みます。
武内宿禰の息子である蘇我石川宿祢が蘇我家の初代当主となるわけですが、この人物は現在の石川県という県名のもととなったという説もある人物で、その石川県を中心とした北陸一帯に、蘇我氏は勢力を拡大しました。
斉木雲州著「出雲と蘇我王国」(大元出版)によりますと、蘇我氏は現在の新潟、富山、石川、福井の各県の全土に加え、岐阜、滋賀両県の北半分にまで及ぶ広大な領地を有していたようです。これは蘇我氏を理解するために重要な事項で、これほど広大な領地は当時の大王ですら持っていたかどうか、というくらいの広さであり、蘇我氏の並外れた経済力の強大さを物語るものです。
そして蘇我氏は当時、中国地方の日本海側を領有していた出雲王国の王家と婚姻関係を結び、出雲国とも良好な関係を結びました。
さて、これから先は私の推測なのですが、蘇我家は北陸の港からの交易を通じて朝鮮半島にあった新羅、百済、高句麗といった国々と信頼関係を作り、婚姻をも結んで、交易による膨大な資産を形成し、その資産力をバックに古代史族の中でも最有力な氏族へとのし上がっていったのではないかと思えるのです。
新潟県の糸魚川産の翡翠などは当時交易品としてたいへん人気があり、朝鮮半島からも多くの出土例が見られます。これらが蘇我氏の資産形成のもとになった可能性があります。
そして、掲載の蘇我氏系図をご覧ください。
これは川岡保様が少し前にFBに貼られた「古代氏族系図集覧」からの図ですが、蘇我石川宿禰の後、満智⇒韓子⇒高麗という、朝鮮半島を思わせる名前の当主が続いています。
これらの名前の持つ意味ですが、私はひとつの仮説を立ててみました。
それは「これらの名前は、姓は父方から採るが、名のほうは母方の出身地を表しているのではないか?」というものです。
たとえば、「物部守屋」という名前は、父方が物部氏、母方はイスラエル系のモリヤ族の出身であったことを意味しているのではないか?と考えるものです。これらの名前はいずれも本名ではなく、通称として呼ばれていたものでしょう。父方と母方の親がどのような家柄かということがわかりやすいほうが、当時の人が敵味方を判別しやすかったはずですから。
この方式で人物の血脈を推測してみますと、蘇我石川宿禰は石川県地方の豪族の母を持つ人物であり、それゆえにその地に勢力を張った、ということになります。
同じように、蘇我韓子は朝鮮半島に出自を持つ母と、蘇我氏の父から生まれた子供であり、蘇我高麗は蘇我氏の父と高句麗出自の母から生まれた子供であろうと推測できます。
なぜ蘇我氏が朝鮮半島から代々の妻を迎えていたかというと、その嫁様の出身国が重要な貿易相手だったからです。
新羅、百済、高句麗などの国とさかんに縁組を行い、共通の子孫を増やすことでお互いの親密度を上げ、貿易の拡大を図ったわけです。
これは現代の感覚からすると理解しづらいのですが、この当時はまだ日本という統一国家の概念はなく、日本列島も出雲国、ヤマト国、熊襲国などの都市国家がまだ林立している状況でした。これらの国同士でもさかんに縁組が行われ、戦争にならないように細心の注意が払われていました。政略結婚こそは戦争を回避するための最大最高の手段だったのです。
これはヤマトの大王家においても同じで、たとえば神功皇后の母方のルーツは新羅王家にあります。新羅王家の王女がヤマトの大王家に輿入れすることで皇后となり、神功皇后はヤマト国の女王と新羅国の女王という、二つの国の王位を合わせ持つこととなり、そのため新羅からも朝貢を受けたりしています。
蘇我氏は王族ではなく、大臣という立場の家柄ですが、王家に準ずる家格として、半島の有力者から代々の当主の妻を迎えていたものと思われます。
地下資源が多く、作物の実成りも良い日本から、寒冷な朝鮮半島に向けて輸出される産品はどれも貴重なもので、蘇我氏はこの半島交易をほぼ独占することで、財務的にはヤマト王家をしのぐほどの財力を蓄えたものと思われます。
蘇我氏はその財力で山田寺や法隆寺、四天王寺など、現在の貨幣価値なら数百億はかかると思われる大仏教施設群を作り上げました。この事業の大半は国費を使わずに蘇我氏単独の財力で行ったものとも考えられ、このことひとつだけでも蘇我氏はたいへんな功績を今に残しています。
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