真説仏教伝来③ お釈迦様存命中の釈迦国の状況
ここで話を最初に戻し、お釈迦さまが生きておられた頃の状況を整理いたします。
お釈迦様の生誕地についてはいくつかの説がありますが、最も有力なのは現在のネパール西南部、インドとの国境に位置するルンビニという町です。
このルンビニという町のカピラパストウ城というお城の王宮で、釈迦族王の皇太子として生まれたのがゴータマ・シッタルダ。後のお釈迦様だったと言われています。
私は数年前、このカピラパストウ城に行ったことがあります。レンガ造りの王宮は現在でもその威容の一部を残しており、建物の構造や内部の間取りまではっきりわかるほど土台がしっかり残っていて、お釈迦さまが生まれた部屋まで特定されておりました。
周辺はアフリカのサバンナを思わせるような灌木と草原の広がる地域で、お釈迦様の頃とそんなに変わっていないのではないかと思えるくらい、開発から取り残された地域でした。
野生の猿やイノシシがそこら中に出没しますし、夜は大量の蚊の攻撃にさらされます。
おそらくは虎などの危険な猛獣も生息していたでしょうし、私は「お釈迦さまはこのような過酷な環境の中でどうやって仏道の修業をなされたのであろうか?と不思議に思ったものでした。
・・・ともあれ、この王宮でお釈迦さまが生まれた頃、釈迦族の国はコーサラ国と言う、今のインド北部からネパールにまたがる大きな国の属国に過ぎませんでした。
しかも、釈迦族にとって不幸だったことに、釈迦国とコーサラ国の関係は微妙でした。お釈迦様の生存時にはコーサラ国の王はお釈迦様に帰依していたのですが、その息子の王の代になると逆に釈迦国を攻撃し始めたのです。
この王の母親は釈迦族の出身だったと伝わるのですが、王は些細なことで釈迦族を憎むようになったようで、ついには釈迦国を攻め滅ぼしてしまいます。・・・つまり、この王は母親の母国を滅ぼしてしまったわけです。
お釈迦さまはカピラパストウ城で育って行く中で、人々の生老病死に何度も直面し、人生のはかなさを知って修行の道に入ったとされています。が、私にはこの釈迦国の地勢的、政治的な過酷さと、やがて来る運命がお釈迦様にこの世の諸行無常を感じさせ、出立を促した側面があるのではないかと考えています。
事実、お釈迦様の死後、ほとんど間を置かずに釈迦国はコーサラ国に攻め込まれ、滅ぼされてしまいます。
そしてここから、逃げ延びて生き残った釈迦族の流転の旅が始まります。
仏教は一部の原理主義的な宗派を除いては極めて平和的な宗教であり、他の宗教を攻撃することもほとんどありません。しかし、仏教自体はその歴史において様々な方面から迫害を受け続け、現在でもイスラム教原理主義者による仏教遺跡の破壊などの攻撃を受けています。
ずっと迫害を受け続けてきたという点で仏教はキリスト教と似ていますが、違う点は、お釈迦さまが生きている間はさほどの迫害はなかったものの、お釈迦様の入滅後は迫害を受けるようになったという点です。この点、キリスト教はイエス様の生存中から、それもイエス様自身が迫害を受けていましたので、さらに過酷な運命と言えます。
仏教がなぜ迫害を受け続けたのかと言いますと、当時のインドにはバラモン教という先行宗教があり、このバラモン教には厳格なカースト制度という身分制度が敷かれていて、いわば歴然とした人種差別のもとに国家が成立していたからです。このバラモン教の社会観が、人間の平等を解き、職業や家柄による貴賤の区別を否定するお釈迦様の教えと相反するものだったため、当時の政治権力を握っていたバラモンという最上級階層の人々から仏教は目の敵にされたのでした。
・・さて、ここまでは他の文献にも書かれているストーリーですが、問題はここからです。
釈迦族はどのようにしてこの迫害から逃れ、仏教を世界的宗教のひとつにまで押し上げることに成功したのでしょうか?
現在においても仏教の普及率はインドにおいてわずか5%。お釈迦様の生地ネパールにおいても9%に過ぎません。これらの国に深く浸透しているのはヒンドゥー教であり、仏教はお釈迦様の故郷で受け入れられているとは言えない状況が続いています。
ところが、日本をはじめタイやミャンマーなどの東南アジア諸国には仏教国が多く、仏教を基盤として国家が成立している国が多いのです。
このことは、故郷を追われた釈迦族が異国の地で仏教を再興し、お釈迦様の教えを広めることに成功したことを物語っています。
歴史を辿ってゆきますと、仏教の伝播ルートは大きく三つに分かれます。
① ネパールから北インドを経由して東南アジア方面に広まったルート。
このルートを通った仏教は現在、南部上座部仏教、あるいは小乗仏教と呼ばれ、教義的にはお釈迦様の教えを最も正確に伝えています
現在の地域で言うと。ミャンマー、タイ、カンボジア、ラオス、ベトナムなどの国々です。
② 北インドから中央アジアを経由して中国に伝わったルート。
仏教は古代の中国王朝の支配者層にとっても都合の悪い宗教だったため、中国に入るのが遅れ、先に月氏等の遊牧民族に広がりました。遊牧民族は土地や財産に固執せず、素朴な生活を誇り持って続けるという高潔な生活習慣を持っていたため、仏教の教義を受け入れやすかったのです。
皆様は三蔵法師が経典を得るため天竺に向かう情景を思い起こすとき、西を目指して旅行しているような既視感・感覚がないでしょうか?・・・そう、三蔵法師はお釈迦様の故郷に向かったのではなく、西域の遊牧民族の地にあった経典を得るために旅していたのです。
③ ネパールから北インドを通り、中国南部に入ってから朝鮮半島に進出、そこから日本に入ってきたルート。
①と②は多くの文献で研究が進み、その概要も明らかになっています。しかし、この③のルートについてはほとんど今まで語られておらず、研究もなされていないようです。
しかし、この「第三のルート」こそ、わが国に最初の仏教伝来をもたらしたルートであり、このルートを解明することによって我が国の成立がいかに仏教と密接に関わってきたのかということが明らかになり、同時に日本という国家の知られざる側面が明らかになる、と私は考えています。
次回からこの「第三の仏教伝来ルート」について述べたいと思います。
(写真上はカピラパストウ城跡にある円形の庭園。下は大分県の尺間神社の境内。丸い形の庭などどこにでもありそうですが、尺間という字がお釈迦様の釈という文字を内在しているのは、つながりがある可能性を感じます。)
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