真説仏教伝来② 塩土老翁と猿田彦の正体(佐藤達矢稿)

佐藤達矢稿

真説仏教伝来② 塩土老翁と猿田彦の正体。

 前回、塩土老翁と猿田彦はドラヴィダ人であり、その正体は交易と地下資源を求めて日本にやってきた商人であるという説を提唱いたしました。今回はこのことをもう少し深く掘り下げてみます。

 まず、塩土老翁ですが、まずこの人の名前、塩土が「インド」とも読めることにご注目ください。名前からしてインド人ですよと言っている可能性があるのです。

 そしてこの人物、日本書紀において、登場回数は少ない(わずか二回)のですが、歴史上非常に重要な働きをしています。

 最初に登場した時は海幸山幸のいさかいを仲裁し、分の悪かった山幸を勝利に導いています。そして二度目の登場の時は神武天皇に東征を提言し、それを決断させているのです。

 最初の時、もしも塩土老翁の登場がなかったら、山幸は海幸に完璧な敗北を喫し、国を追われていた可能性もあります。この物語は古代日本における山の民族と海の民族の紛争を伝えているものと考えられますが、塩土老翁が山の民族に味方したことで日本の勢力図が変わりました。
 おまけにこの時、塩土は山幸の失くした釣り針を探し、海の魚をすべて集めて針の刺さった魚を探し出すという離れ業をやってのけています。これは現代でいえば、全国に協力な組織網を持つヤクザの大親分が組を抜けた男を探し出すようなもので、国家権力レベルの支配力・組織力を持った人物でないとできない仕事です。

 さらにその次、塩土が神武天皇に「東によき土地がございます。そこに行かれて王となられませ」と進言したということは、この時の塩土は日本に割拠する多くの国々の状況に精通し、神武ならば統一日本の王になれると計算し、そのための具体的な戦略も描ける人物だったということを物語っています。そして、神武を実際に動かすことまで・・・。

 これらのエピソードは、当時の塩土が途方もない大物であり、日本全体の国勢を揺るがすほどの実力を持ったフィクサーだったことを暗示しています。言い換えれば神武王権は塩土によって意図的に作られたと言っても過言ではないかもしれません・・・。

 しかしながら塩土は、自らが戦闘に参加することは一度もありませんでした。また、政治を行った形跡もありません。彼らは軍事力を使って日本列島を征服するということはやっていないのです。このことは、塩土の正体が、国の王ではなくて貿易商人であったこと、それも当時、日本全国の海上交通を取り仕切ることができるほどの大きな海運力を持った商人であったことを示しています。

 彼らは商人として外国の珍しい物産を日本に届けてくれ、さらに日本の産物は高価で買い取ってくれたことでしょう。そのためどこに行っても大切に扱われ、各地の王たちに顔の利く存在だったと思われます。

 その他、塩土は山幸を竜宮に連れて行ったり、宮城県塩釜神社(祭神は塩土)の社伝では建御雷とフツヌシを諸国平定に導いたとあるなど、日本古代史上類例のないフィクサーであることが伺えます。

 また、日本語と韓国語の源流がドラヴィダ語であり、中国語や英語とは似ても似つかない構造を持っていることから考えましても、この時期の日本にドラヴィダ人が渡来し、大きな影響力を持って交易を行っていたことはじゅうぶん考えられます。日本人にドラヴィダ語を教え、後の日本語を言語として成立させたのも塩土かもしれません。

 一方、猿田彦の方ですが、この人も塩土と同じく、自分から武器を持って戦った記録がありません。この人はニニギ降臨の時に「私は国津神です。」と言って現れ、「お待ちしておりました。道案内をいたしましょう。」と言ってニニギを熊襲国に導いています。

 「国津神」というのは、日本列島に昔から住んでいた国主のひとり、という意味です。
つまり、猿田彦はニニギが日本にやってくるということをどこからか知らされていて知っており、ニニギの警護かたがた道中案内をするために迎えに来たのでした。

 この猿田彦の行動からも、彼もまた領土欲はなく、ニニギとコノハナノサクヤヒメが結婚することで国際関係の良好化を狙った外交官的な人物だったことが推察されます。猿田彦が同行するということで熊襲王はニニギ一行を信頼し、自分の娘との結婚までを許したのでした。たいした人望力というほかありません。

 ところで、ニニギの出生地はおそらく金官伽耶国。首露王の孫くらいにあたる人物だと私は考えています。
 つまり、猿田彦は金官伽耶国と熊襲国の政略結婚を後押しし、両国の絆を深め、自分たちの行っていた半島と九州を結ぶ貿易事業の一層の発展を図ったと考えられるのです。

 ニニギを祀る神社は鹿児島県や宮崎県を中心として数多くありますが、その地の伝承として、ニニギという人物がたいへんな人徳者で、その地の人民のために数知れぬほどの恩恵を施し、知識や技術を伝道し、神様のように崇められていたということが伝えられています。
(このことはウエツフミにも膨大な記載があります。)

 ニニギもまた、その正体は侵略者ではなく、自国の通商の発展のために熊襲国に婿入りしてきた貿易商人だったのです。特に彼は日本に眠っている地下資源を求めてきたと思われます。と言いますのも、彼を祀る神社や史跡の周辺には鉱山が多く、彼が鉱脈を探して日本列島をくまなく捜し歩いた形跡が見て取れるのです。

彼らのような貿易商人にとって大切なことは、その土地の人々と信頼関係を作ることでした。人々から信頼を勝ち得た彼は日本全国をくまなく調査し、優れた地下資源を探し出し、彼らのルーツであるインドのサータバーファナ王国へ届けてローマ王国との貿易を拡大したことでしょう。

 ちなみに、ドラヴィダ族からは後年、あのマハトマ・ガンジーも出ていますが、ガンジーに代表されるようにドラヴィダ人は争いを好まない民族で、戦争になるくらいなら国を捨てて逃げた方がまし、と考える人々でした。
 そのため、古代にはお釈迦様の生まれた北インドにいたドラヴィダ人は次第にアーリア人に圧迫されて南へと移動し、現在では南インドが彼らの居住地となっています。

 お釈迦様の説いた不殺生戒、ガンジーの説いた非暴力等、これらをドラヴィダ民族の特徴と考えるとき、古代の日本にいた塩土老翁、猿田彦がドラヴィダ人であったとしたら、彼らもまた「人を殺さない」という共通の倫理観を持っていたとしても不思議はありません。
このような民族が現代日本人の祖先の一部を形成しているとしたら、その遺伝子は現在の平和憲法にまで続いているのかもしれません。

 お釈迦さまがドラヴィダ人であったという証拠はありませんし、あくまでも私の仮説ですが、実は釈迦族は別途、日本に来ているのではないかと私は考えています。
 このことは、ニニギの生家である金官伽耶国の初代王妃、インド人の許黄玉に戻ってご説明しなければなりません(続く)。

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