高良玉垂宮神秘書 訳文 第十三章 神社創建
第一四五条
第十八代履中天皇の時初めて仮社を造った。その後二十六代武烈天皇の時 社を造り変えた これも仮社である。第三十六代孝徳天皇の時 宮が無い時仮社を異国征伐の大将軍の印となった
第一四六条
四五代聖武天皇神亀二年丑乙より 天平九年丑丁の年まで十三年 順の改装の御桑栄である。
第一四七条
四十八代称徳天皇の時 社内に手負鹿走り入ったことにことごとく改め順の改装の御桑栄の時より 当山は殺生禁断となった。
第一四八条
五十九代宇多天皇の時 逆改装があり上宮より下に造った 第一四九条 高良の官は有符の社であり 五色に彩る社である 符を少々変えた 五間に定めること五仏を表す 妻五間に定めること 五躰尊である 八尺間は仁王経二句のケ 八ケの文を表す 一間に十六本の垂木は 十六戦神を表す 組み入れ天井の組みれ以下は 金胎両部を表す 貫 板 楔 釘以下までも三世の諸仏を表す 藁葺きは神代の鵜茅を表す たとえ逆に改装しても 順改装のように柱三十六本は地の三十六神を表す
第一五〇条
七十代冷泉天皇の時 又 順改装があった 勅使には太政大臣頼道公を差し遣わした 改装の次第の項 第一五一条 朝妻 下宮 伊勢 本躰所 印鑑 一の宮より七の宮まで 七堂八ヶ寺 阿志岐 妙見一の鳥居より三の鳥居まで両坂本本躰所 阿志岐 門は三間社であり その外はことごとく一間社である五社山王 天神 留主七社 社内にあり 一間社である その次に本社を造り 左右百八十間の端郎四方に有り 百八十仏を表す 灯篭 聖羅符 フラフ門を建て 四十八間の渡り廊を造った これは四十八漕の船を表す 三十三間の間ラフ 三十三天を表す 朝妻より上宮を造ることを順改装といい 順改装の祭ことごとく小社を招集させる為 逆の改装という 上宮より朝妻に造ることは逆改装という
第一九四条
六十代醍醐天皇延長癸未 筥崎宮創立
第一八二条
大菩薩 その山を結界の地とし八葉の石畳を付かせ その時高良内を外に貼り 大善薩御法心があってから御託宣にまかせ高良山に三百六十余坊を建て 三百六十余坊日をかけ三百六十余坊の内 十五坊を高良内に建て 座主の屋敷とした その時より高良内と名付けられた。
第一九一条
四五代聖武天皇の時 香椎宮 神亀元年甲子神社創立
第一九二条
皇子児宮 天平元年己巳 志賀の前社創立
第一九三条
四六代孝謙天皇 住吉の宮創立
第一九四条
六十代醍醐天皇延長癸未 筥崎宮創立
第一九五条
第四五代聖武天皇天平元年己丑 宇佐宮創立
第二八一条
高良 九州の古荘ひうたるか、天平勝宝元年丑己の年 宇佐八幡宮の創立により 高良 御ままこたるにより 九州の宗廟の司を譲られた
第五三七条
大善寺に 高良九品省は長久元年に高良山の様態を映した
解説
宮神秘書には神社の創建の年が記されている高良大社の創建は仁徳55又は78年履中元年創建とあり書には履中天皇の時とあるのでおよそ西暦400年頃で間違い無いと考えられる。 筥崎宮は創建921年から923年とされている 書でも醍醐天皇延長癸未とあるのでほぼ同じと考えられる。 志賀海神社は創建は天平三年とあるのでほぼ同じ 住吉は何処の住吉かは不明だがいずれも四六代孝謙天皇の時代より古い創建としている。 宇佐八幡宮は創建和銅5年鷹居八幡神社 (712)霊亀2年(716)小山田神社に移すとあるが 書には天平元年己丑(729)年創立とあるので十年ほど古い創建としている。 この時に九州の宗廟を高良から譲られた。
高良玉垂神秘書 訳文 https://kouratamadare.com/%e9%ab%98%e8%89%af%e7%8e%89%e5%9e%82%e7%a5%9e%e7%a7%98%e6%9b%b8
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