月の民の足跡② 「U」の聖音を使う一族。(佐藤達矢稿)

佐藤達矢稿

月の民の足跡② 「U」の聖音を使う一族。

 前回、月読の一族は頭文字に「U」がつくのではないかという仮説を提唱いたしました。

この仮説を今回、もう少し掘り下げてみます。

 中国語で「月」は「YUEユエ」と発音します。したがって月氏族はユエ~と呼ばれていたと思われます。大月氏は「ダーユエ」小月氏は「シャオユエ」です。

 以前私が韓国に行ったとき、金海空港から金海の市内に向かうバスの中から、月の窓飾りや屋根飾りのついた家屋をたくさん見ました。通訳の人に「韓国人は月のマークが好きなんですか?」ときいたら、「そうです。韓国の人は月が大好きな人が多くて、店や会社のマークに使っている人も多いですよ」ということでした。

 少し前にこのFB古代史研で上野俊一さんが「韓国は兎の形をしている」という投稿をされたことがありました。確かによく見ると朝鮮半島というのは兎の姿によく似た形をしています。それも、満月の中で餅つきをしている、あの横向きの兎の姿にそっくりなのです。

 陰陽思想の発達していた中国では、日本を太陽の昇る国、太陽の国と見立てたため、それに対比する形で朝鮮半島を月の国と見立てたのかもしれません。

 古代中国は半島の北部に「玄菟郡」という郡を設置し、半島経営にあたりました。

「菟」という字は兎という字に似ていますが、実際、ウサギという意味もあるようです。私は「玄菟」という言葉は月の中にいるウサギのことを表しているのではないかと考えます。

 「兎」も「菟」も中国語で「トウ」と発音します。やはり「U」を母音とする言葉です。

 日本語に母音はわずか5個しかないので、日本語において5分の1の確率でこの音韻が発生するため、これらがすべて月氏を表しているとは言えません。しかし、この「U」を追いかけて行くと、古代史の見えなかった部分が見えてくるようなところがあるのです。

 古代、周や秦、漢といった中国の強力な王朝との抗争に敗れた月氏一族は、朝鮮半島に逃げたのではないか? そこから中国の人々は半島を「月の民が行った国」として「玄菟」と名付けたのではないか?・・・そんな気がするのです。・・・とすると、後年高句麗という国になったこの地域には、ウサギに絡む伝承や因縁があるのではないか? あるいは、ウサギを紋章とする一族がいた可能性もあるのではないか?・・・。

 たとえば記紀に書かれた因幡の白兎伝説。ウサギは日本に渡ろうと思ってワニをだまし、日本にたどり着いたところでウソがばれて毛皮を剥がれてしまいますが、これは日本に渡ろうとした月氏の一人が、苦労した末、日本に着いたときには財産のすべてを使いつくしてしまっていた、という史実の暗喩ではないでしょうか?・・・。ちなみに白は新羅国を表し、ワニは動物のワニのほか、大きな船の俗称でもあり、また和邇族という氏族をも意味します。また、山陰地方ではサメのことをワニと呼ぶという説もあります。するとこの説話は、新羅から因幡地方にやってきたウサギの紋章の一族(月氏)のことを語っているとも受け取れ、一緒に来たワニの氏族とは仲たがいして金品を奪われたとも解釈できます。

 慶州にある新羅国の王城の名前が「月城」であったことは前回も書きました。この月城が作られた頃、日本から新羅に漂着したと言われる人物に「瓠公」という人がいます。

 瓠公は初代新羅王赫居世と同一人物ではないかという説もある人物で、新羅建国時の元勲です。この人が新羅で居住していた家がのちに「月城」と呼ばれるようになったと伝えられています。

 瓠公は腰にヒョウタンをつけて海を泳ぎ渡ってきたためにその名で呼ばれるようになったという伝説ですが、さて、この瓠公は日本のどこから渡ってきたのでしょうか?・・・

・・・大分県千歳村に柴山神社という神社があり、毎年「ひょうたん祭り」という謎の奇祭が行われています。大わらじをはいて赤い装束を着た神様がひょうたんに入れたお酒を人々に注いで歩くという意味不明のご神事で、起源は建久年間とされていますが、もっとずっと昔からあったのかもしれません。

 その柴山神社の数キロ西に、上田原御手洗神社という名の神社があります。

この神社はおそらく、もともとの名前は「上俵神社」であり、半島との交易品(俵)を一時的に保管する中継地として機能していたと思われます。ここから出る交易船に乗って半島に行った「ひょうたんさま」が新羅の瓠公ではなかったか?と私は推測します。

 上田原御手洗神社は特殊な建築様式で建てられています。なにが特殊かと言いますと、この神社の神殿は池に囲まれており、水中神殿と言えるような様式を持っているのです。

そして、この水中神殿の様式は湯布院の宇(U)奈岐日女神社にも用いられているのです。

おそらく、このふたつの神社もまた対の神社であり、やはり草綿貿易の管理施設であり、そしてその源流はインドにあったのではないかと私は考えます。

 現代でもインドでは池の中にぽっかり浮かんだような瞑想堂のある光景をよく目にします。水は不浄を取り除く働きがあり、川は神界と人間界を区分する意味があります。

 日本の神社でもたいてい神殿の前には川か池があり、橋を渡って参拝する作りになっているところが多いのですが、その源流はインドにあるのではないかと思われます。

 インドには紀元前100年ごろに大月氏国が侵攻し、クシャーナ王朝を建てました。

このクシャーナ王朝の頭文字も「KU」で、「U」音を持っています。

 さらに、上田原神社のある地域に伝わる伝説に登場する百合若大臣の頭文字も「YU」。

百合若大臣伝説は大分と壱岐・対馬を舞台としており、これは古代からの草綿交易ルートであったことから、百合若の時代である蒙古襲来のころまでこの交易ルートは残っていたのかもしれません。

・・・その他、半島で月読族と深い関係があったとされる女真族の頭文字も「NU」。

 月氏が半島に至る前に通過したと思われる中国の呉国の発音は「WU-GUO」。

 上田原御手洗神社や柴山神社のある大分の地にあったのは「ウガヤ朝」(UGAYA)。

 そのウガヤ朝の中心地にそびえる宇曽岳(USO)の真北20キロの地点に豊後一之宮柞原(YUSUHARA)八幡宮、そしてその真北30キロ地点に宇佐(USA)神宮。

ウガヤ朝南限の宮崎には鵜戸(UDO)神宮・・・その他、もう書ききれません。

 母音を氏族の通字とできるとしたら、その支族はたいへん力の強い部族だったと言えます。なにせインドでは「ア」「オ」が宇宙神の聖音、「イ」はシヴァ神、「ウ」はヴィシュニューという大神を表す聖音であり、日本の言霊信仰のルーツとも考えられるのですから・・・。

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