スサノオの足跡㉕ 徐福=スサノオ説再考 その3大元出版の本から徐福の足跡を探る(佐藤達矢 稿)

佐藤達矢稿

スサノオの足跡㉕ 徐福=スサノオ説再考 その3
大元出版の本から徐福の足跡を探る

大元出版の本で語られる徐福の渡来時の行動についてまとめてみます。
BC219年 ・秦国より出雲に徐福の使者到来。

使者の頭目は穂日(ホヒ)と武夷鳥(タケヒナドリ)の親子。
ふたりは出雲・神門臣家の八千矛王に謁見し、上陸許可を求める。

・八千矛王は出雲八重書の掟を守ることを条件に許可する。

・このときの献上品「編鐘」は後日「銅鐸」となる。

BC218年 ・徐福の船団、石見国の五十猛(島根県大田市)の磯に着く。

徐福は石見国に住み、八千矛王の娘・高照姫を妻に迎える。
やがて二人の間に長男・五十猛命が生まれる。

・ある日、八千矛王と副王・事代主が行方不明になり、しばらくして二人とも死体で発見される。実行犯は穂日と武夷鳥。命じたのは徐福と言われる。

・穂日と武夷鳥は捕らえられ、徐福は秦に逃げ帰る。

・一方、五十猛はそのまま五十猛の地に留まり、八千矛王の孫・大屋姫と結婚。
息子・高倉下が生まれる。
・五十猛命は名前を大年彦、また香語山と変えていった。

・徐福の連れてきた秦族たちは出雲に居づらくなり、五十猛・大屋姫らと丹波国に移住する。

・五十猛の子孫は海部氏となり、代々、籠神社の宮司となる。

BC210年 ・徐福、再び童男童女3千人を連れて山東半島を出航。
軍隊と職工も同行する。

彼らは佐賀市の浮盃の浜に上陸、現在の諸富町に居留する。

徐福は正体を隠すため、饒速日と名乗る。

・饒速日は宗像家の市杵島姫を后に迎える。
二人の間には彦火火出見と穂屋姫が生まれる。
のちに、彦火火出見の子孫は物部氏となる。

・海部氏の香語山、穂屋姫を后に迎え、長男・村雲命が生まれる。
この村雲命が記紀で語られる神武天皇のモデルである。

・徐福の死後、彦火火出見は吉野ケ里を中心に勢力を伸ばし、筑後、筑前を支配する。国名を「筑秦国」とし、後にこれが訛って筑紫国となる。

・後年、村雲命はヤマトに進出、出雲の事代主の子孫の登美家と協力して海部王朝を作る。この王朝の妃は代々登美家から迎えられたので登美家の血が濃くなり、出雲系の磯城王朝となる。

・一方、西出雲の神門家勢力も徐福の連れてきた秦人集団との共住を嫌い、ヤマト国の葛城地方に移住、大屋姫と高倉下も葛城に移り、後に紀の川の河口(現在の和歌山市)に住む。(これが葛城王朝の興りである)。

・天村雲王は登美家からタタライスズ姫を后に迎え、ヤマト国の王権を確立。
(これが記紀では神武天皇の行跡に変えられている)。

以上が徐福渡来の行跡ですが、これより少し前、徐福のいた斉国が秦に攻められていた時、斉国の王族が出雲に亡命しており、その中に徐福がいた可能性もあるようです。

これらの記述の信ぴょう性が高いのは、それぞれの事績について、それを裏付ける史跡や神社の存在が示され、その場所が現在の住所の番地単位まで明記されていることです。つまり、大元出版の書物における徐福の事績はすべて証拠付きで開示されていると言って良く、ほぼ疑いようのないものが多いのです。

たとえば、

・最初の斉国からの亡命者の上陸地は土井ヶ浜遺跡付近(山口県下関市豊北町)。
この地から紀元前2世紀前半以前の山東省の古人骨300体が出土している。

・二度目の船団が上陸したのは石見国の五十猛(島根県大田市)。ここには五十猛の磯をはじめ、畑井や畑谷、畑中当、ハタのつく地名が残っている。

・徐福たちが東に居住地を広げた際に住んだ島根半島には古浦砂丘遺跡(松江市鹿島町)があり、渡来系人種の人骨約60体が発掘されている。

・斐伊川の河口近くには海童集団(徐福の連れてきた童男童女)を祀る海童神社がある。
また、その対岸の浮洲神社は徐福が浮洲を蓬莱山に見立てて建立したものである。

・出雲市大社町入南の乙見神社にある「社稷神」の石碑は徐福の子孫が建てた古代シナの 周の時代の神を祀るものである。

・その東北の荘厳寺の敷地の中に不老山公園や不老の滝があるが、道教の不老不死の考えにちなんでいる。

・さらにその骨法の唐川町という名は徐福族が住み着いたことからついた地名である。

・八千矛王が殺害された場所は猪目洞窟(出雲市猪目町)であり、出雲国風土記に「黄泉の穴」として記述がある。また、八千矛王が埋葬されたのはその西南の竜山である。

・猪目洞窟から少し西の「伊奈西波伎神社」は武夷鳥を祀ったものである。(日本書紀では武夷鳥は稲背脛として登場する)。

・八千矛王が遭難した園の長浜には、かれを祀る祠が作られ、
その祠は現在長浜神社(出雲市西園町)となっている。

・事代主が殺された場所は粟島の裏の洞窟である。「伯耆国風土記」に、事代主がこの地に粟の種を植え、その粟柄に乗ったらはじかれて常世の国に行ったという記述がある。

・事代主の遺体は熊野山に運ばれ、葬られた。神魂神社近くの東出雲王墓にも彼の拝み墓がもうけられた。出雲市常松町には彼を祀る常世神社が建てられている。

・・・と、まあ、こんな感じで、大元出版の本の記述は実に詳細で説得力に満ちています。

では、なぜ徐福はこのような行動をとったのか? そして古事記と日本書紀はなぜ徐福の記述を外し、神武天皇に到る皇室系図を捏造したのか? という疑問がわいてきます。記紀は史実をかなり改ざんしていますが、まったくのデタラメを書いているわけでもなく、史実を切り張りにして人名や地名、時間を入れ替えたりしています。そして、大元出版の本との相違を比較することで、なぜそうしたのか?という意図が見えてくるのです(続く)。

<参考文献>
・出雲王国とヤマト政権 富士林雅樹著 大元出版 2019年
・魏志和国の都 勝友彦著 大元出版 2019年
・出雲と蘇我王国 斉木雲州著 大元出版 2012年
(本稿に記載した情報の多くは「出雲王国とヤマト政権」に書かれています)。

(写真は徐福が上陸したとされる佐賀市、浮盃の浜)。

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