蘇我氏の正体⑫ 聖徳太子は実在したか?(佐藤達矢 稿)

佐藤達矢稿

蘇我氏の正体⑫ 聖徳太子は実在したか?
聖徳太子は日本古代史上でも最大級の偉人として日本書紀に描かれている人物です。
そのため、その肖像が一万円札のデザインになったりして日本人には知らぬものがないほど広く知れ渡っていますが、実はこの人物、一部では「存在しなかった」という説が提唱されるほど謎の多い人物です。今回はこの聖徳太子の実像を探って行きます。
まず、「聖徳太子という人物は実在したのか?」という疑問ですが、結論から申しますと、「聖徳太子という名前の人物はいなかったが、それに比定される人物は存在した。」と言えます。
聖徳太子という名前は記紀の作者によって捏造された可能性が高く、その行跡もかなり粉飾の疑いがあります。
が、決して平凡な人物でも、悪逆な人物でもありませんでした。それどころか、仏教興隆に多大な貢献を成した人物であり、一度は大王(天皇)として即位した人物でもあったようです。
まず、記紀に記されたその名前を見てみましょう。
古事記では聖徳太子のことを「上宮之厩戸豊聡耳命」と書いています。
一方、日本書紀では「厩戸皇子」「豊耳聡聖徳」「法主王」と、三つもの異名が書かれています。書紀においては「一書に曰く~」として複数の説を併記してあることが多いのですが、実はこの時点で、この記述には歴史を改竄する作為が見られます。
すでに多くの人々によって指摘されていることですが、「厩戸皇子」という名前や「聖徳太子」という名前には、新約聖書のイエス・キリストの記述が投影されています。
もともと、記紀という書物は各地の伝説や伝承話を集めてまとめた歴史物語ですが、記紀が参照した物語の中には新約聖書もあったようです。
もともと、人の名前というのは原則としておめでたい、良い意味を持った名前をつけるものです。あるいは、その人物の出生地や母親の出身地にちなむ名前を付けることが多く、卑賎な字義を持つ名前はまずめったにつけられるものではありません。その意味で「厩戸皇子」という名前には違和感を感じさせられます。これはイエスの出生の場所が馬小屋であったという新約聖書の記述を拝領したものであり、聖徳太子という人物を聖人に見せかけるための偽装工作の第一歩です。
特に日本書紀における工作には念が入っています。「豊耳聡聖徳」「法主王」という名前もまた、これ以上ないくらい立派な名前で、ここに「聖徳」という文字が出てくることから聖徳太子と呼ばれるようになったものと思われますが、これは後世の諡(おくりな)であり、それも正式なものではなく、日本書紀によって捏造された可能性が高いと思われます。
こうして、その名前だけでも大偉人として登場してくる聖徳太子ですが、日本書紀はそれだけではなく、生涯の業績も比肩すべき人もいないほどの偉業を成し遂げた人物として描いています。たとえば、太子が生まれた時の様子は、
「太子は生まれて程なくものを言われたといい、聖人のような知恵をお持ちであった。
成人してからは、一度に十人の訴えを聞かれても間違えず、先のことまでよく見通された。」
という記述が日本書紀に見られますが、これはあり得ない話です。
そして、太子が死んだときの描写は、と言いますと、
二十九年春二月五日、夜半、聖徳太子は斑鳩宮に薨去された。
このとき、諸王、諸臣および天下の人民は、老いた者は愛児を失ったように悲しみ、塩や酢の味さえも分らぬ程であった。
若き者は慈父慈母を失ったように、泣き叫ぶ声は巷に溢れた。
農夫は耕すことも休み、稲つく女は杵音もさせなかった。
皆が言った。
「日も月も光を失い、天地も崩れたようなものだ。これから誰を頼みにしたらよいのだろう」
という、まさしくイエス様級のスーパースターの最期とも言うべき描写になっています。
その他、遣隋使の派遣、冠位十二階の制定、十七条憲法の発布、数多き仏教寺院の建立などが聖徳太子の業績であるかのように日本書紀には書かれています。ですから、日本書紀を読んだ人は聖徳太子のことを稀代の才人・名君として認識するのが普通と言えます。
しかしながら日本書紀には、これらの行跡を「誰が行った」という明確な記述は書かれていないのです。
これらの改革が行われた頃、日本の政治体制がどのようになっていたかと言いますと、最上位の権力者として推古天皇がいて、聖徳太子はその摂政でした。
この二人に加えて蘇我馬子が大臣として絶大な影響力を持って君臨していたかのように、日本書紀には書かれています。
この蘇我馬子が本当に実在していたのかということは非常に怪しいのですが、ひとまず日本書紀の記述を信用するとしたならば、この時代の政治の決め事は推古天皇・聖徳太子・蘇我馬子の三人の合議制で決められていたと考えるほうが自然で、この三人のほかにも大臣や大連が数人いて、彼らの意見も無視できない状況でした。決して聖徳太子が一人で何もかも決められるような状況ではなかったのです。
それなのに、冠位十二階や十七条憲法などをすべて聖徳太子の業績とするのは奇妙と言わざるを得ません。また、これらの改革に間違いなく加わっており、むしろ最大の貢献者であったかもしれない蘇我馬子を悪党のように扱っているのはますますもって不可解です。
では、今回も斉木雲州氏著の「上宮太子と法隆寺」より、聖徳太子の実像と氏が提唱する内容をご紹介して終わりにしましょう。この説を信じるかどうかは読んだ人次第ですが、少なくとも日本書紀よりは信ぴょう性が高い、と私は考えています。
斉木雲州氏によりますと、聖徳太子と言われている人物の本名は上宮皇子(かみつみやおうじ)。のちに上宮太子と呼ばれた。用明天皇と穴穂部間人皇女の子。
用明天皇が物部守屋に暗殺されたため、上宮皇子は竹田皇子や巨勢比良夫らと守屋を討つ。その戦勝を祈願した四天王への返礼として石川麻古に依頼して四天王寺を建立。
次期大王を約束されていた身分だったが、推古帝が実子の尾張皇子に継がせようとしたため斑鳩に移り、自ら即位して上宮大王と名乗る。翌年、推古帝は尾治大王を即位させ、二人の大王が存在する時代になる。家臣団の多くは尾治大王についたため上宮大王は孤立、以後は法王と呼ばれて実権のない存在となる。法王はその後「三経義疏」を著し、仏教の普及に尽力した。悲運の人であったが、大古墳の築造を止めさせ、代わりに仏教寺院を作ることを奨励するなど、仏教の発展に尽くした功績は多大なものがある。

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