真説仏教伝来⑤ 許黄玉という女性。(佐藤達矢稿) 

佐藤達矢稿

真説仏教伝来⑤ 許黄玉という女性。 

 金官伽耶国初代・首露王の妃、許黄玉という女性は日本古代史上において非常に重要な人物で、日本の歴史学者の中にはこの人を天照大御神に比定している人もいます。

 また、かりに許黄玉がアマテラスではなくても、この女性は古代日本における数種類の有力な氏族の共通祖先となっている可能性が高く、また、日本語の完成や製鉄、養蚕、薬学、お茶など、様々な技術や文化の恩恵を日本にもたらした可能性が高い人物です。
 そして、この許黄玉とその一行は「仏教」をも、最も早い時期に日本に伝播した人々であるようなのです。今回はこの許黄玉を調べて行きます。

 実は、許黄玉の素性は古代の人にしては非常にはっきりしています。

 許黄玉はAD32年、中国、晋州安岳県(現在の四川省資陽市)瑞雲許家鎮の生まれ。
なんとこの地には現代でも許家直系の子孫たちが住んでいます。
しかしながら許黄玉はインド、サータバーファナ王国の王室の血を引く皇女でした。

 サータバーファナ王国は、お釈迦様の生まれた釈迦国があった場所を一時、領土とした時期があり、また、釈迦国が滅ぼされた後に、生き残った釈迦族の末裔たちが住んだコーサラ国の領土をも継承しておりました。つまり釈迦国、コーサラ国が滅んだ後、同じ場所にできた国がサータバーファナ王国だったわけです。

 サータバーファナ王室はバラモン教の司祭の家柄でしたが、王族の中には仏教を個人的に崇拝する人も多く、国教はバラモン教でありながら仏教を厚く保護しました。このため、当時、命脈が尽きかけていた仏教は息を吹き返したのです。

 しかし、その王室の栄華は許黄玉が生まれる少し前から揺らいでおりました。
サータバーファナ王国は、西にあった西クシャトラパ王国と抗争を繰り返し、この国との戦争に勝ったり負けたりという状態が続き、国力は著しく疲弊していたようです。このため、許黄玉の両親は一族全滅の危機を回避するため、手勢を連れて現在の中国・四川省に移動、許黄玉が生まれた頃には安岳という村に住んでいました。

 しかし、その場所もまた彼ら一族の安住の場所とはなりませんでした。
時は前漢の末期。漢の中央政府の統治力が衰え、地方官吏が好き放題なことをやり始めた時代でした。許黄玉の一族は役人から法外な税金を課され、何度か反乱を起こしたようです。

 AD8~23年、王莽による新の建国を経て後漢の英雄・光武帝が登場、漢は地方への権力を取り戻します。
 AD48年、許氏による反乱は光武帝により鎮圧され、許氏一族は江夏(現在の武漢市武昌)に移住させられます。
 そしてこのAD48年は、許黄玉が金官伽耶国の首露王に嫁いできた年でもあります。

 許黄玉がどうして遠く離れた朝鮮半島の国に嫁いできたのか、その理由となる史料は残っておりません。しかしながらその時の状況から、理由はいくつか考えられます。

①江夏にいて生活していても奴隷同然の生活で、支配力の強くなった後漢の支配からは抜け出せる見込みがないこと。
②かといって母国に引き返したのでは、一族を分散させて全滅のリスクを回避するという当初の目的を果たせなくなること。
③(これが非常に重要なのですが)朝鮮半島に鉱物資源や現地特有の物産を求め、王国復興の資金としようとしたこと。

 この③について補足しますと、サータバーファナ王国は貿易立国であり、驚くべきことに当時、ヨーロッパのローマ帝国との間に季節風を利用した貿易航路を持っておりました。
 サータバーファナ王国の遺跡からはローマの金貨がいくつも発見されており、古代としては信じがたいほどの超長距離の交易ルートを持っていたのです。

 彼らが東に向かい、朝鮮半島南部に住み着いたのは、半島や日本列島にある鉱物資源が目的だったと思われます。当時の半島や日本列島の人々は鉱物に関する知識がなく、鉄製品も普及していなかったので、鉱山開拓や鉱物による通商の経験豊富なサータバーファナ王国の人々にとって、東方の地は宝の山だったのです。

 許黄玉と金首露の結婚の仲立ちをしたのは、おそらく倭の海人族(安曇族、宗像族などの漁労民族)だったと思われます。漢という国が中国にできる前、現在の中国の南半分は楚という国の領土でした。楚国の人々は倭人と人種的に同種だったらしく、いわば倭人国家が中国から日本、朝鮮半島へと延々と続いていたのです。おそらく、この倭人国家・楚国とサータバーファナ王国はずっと古代から密接な通商・交易関係を持っていたことでしょう。

 海人族は南西諸島を通じて中国~日本間の貿易を行い、また朝鮮半島を経由して中国北部とも交易をしていました。彼ら倭人たちの目的は、金官伽耶という、大陸との交易の拠点として適した土地に新興王国を起こした首露王と、サータバーファナ王女許黄玉を縁組することで、自分たちの倭~中国~インドへと続く交易路の安定と拡大を図ったのでしょう。そしてこの縁組は首露王にとっても許黄玉にとっても、文字通り「渡りに船」の話でした。

 金官伽耶国の建国はAD42年とされていますが、実際にはこの年は首露王の生まれた年のようです。許黄玉との結婚はAD48年。当時、首露王はわずか6歳、許黄玉は16歳でした。こういう、年齢的にも無茶な結婚をしていること自体、この縁組が露骨な政略結婚だったことの証とも言えます。・・・しかしながら、そんな無茶な縁組だったにも関わらず首露王と許黄玉は相思相愛の仲になったようで、十二人もの子宝に恵まれています。

 首露王の両親は大伽耶国の王と王妃でした。大伽耶国は南朝鮮中央部に位置する当時の大国で、伽耶山を本拠地としていましたが、そこがあまりにも山深く、貿易や通商に不向きな土地柄であったので、金首露の時代に洛東江という川を下ってその河口付近に都を構えました。これが金官伽耶国の起こりです。

 この場所は日本列島や朝鮮半島のほかの地域と近く、交易を行うのに最適な場所でした。また、当時この地域は倭人が支配しており(つまり、金官伽耶国は倭人国家でした)、日本列島に拠点を持つ倭人にとっても最適な場所だったのです。彼らはこの縁組により、北九州にあった奴国や伊都国、ウガヤフキアエズ国といった有力な倭の国々と朝鮮半島の間の交易ルートを強固なものにし、遠く中国、インド方面への交易路に結び付けたのでした。

 そして、許黄玉が嫁入りした時、同行した多くの臣下たちと一緒にいた彼女の兄・長遊禅師こそが、日本へ仏教をもたらした代表的な人物だと私は考えています(続く)。

(写真は韓流ドラマ「鉄の王キム・スロ」に許黄玉役で出演した女優ソ・ジヘ。きれいな女優さんですが、実際の許黄玉はドラヴィダ系だったのでもう少し色黒だったと思われます。また、豪華な黄金のティアラは実際に発掘されていますし、絹織物の技術もあったため、服装は当時からこのくらいあでやかなものだったと思われます。)

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