真説仏教伝来⑲ 冠山の女陰岩(佐藤達矢稿)

佐藤達矢稿

冠山の女陰岩

下の写真は大分県の由布市にある冠山という山の山中で私が発見した「女陰岩」です。

古代遺跡だとは気づきにくいのですが、ちゃんとクリトリスや小陰唇にあたる部分まで設置されており、人造物であることがわかります。

御覧の通り、かなり巨大なもので、自然石を利用して作られたものかもしれません。

古代人がどうしてこのようなものを作ったかということを理解するための手掛かりが、「三国史紀」巻第13「高句麗本紀」第1.の記述にあります。

これは高句麗の始祖・朱蒙が生誕したときの話ですが、

「日の光が彼女を照らした。体を避けると日の光はまたついてきて照らすのであった。それから孕み、やがて五升くらいの大きさの卵を一つ産んだ。」

・・・とあります。

つまり、古代人にとって太陽光というものは、万物を育む魔法の光であり、それは太陽神が大地に射精して受精させることによって生命が発生し、育まれるものだ」と考えた、ということです。古代人にとって日光は神様の放つザーメンだったのですね・・・。

このような考え方を持つ太陽信仰族が古代、日本にやってきて、このような女陰岩を各地に作りました。これと同様に「男根岩」というのも全国各地に見られますが、目的は一緒で、古代人にとって男女の性器というものは猥褻物ではなく、それどころか生命を発祥させる聖なる装置だったのです。

女陰岩の多くは山の中腹の日当たりの良い斜面に置かれています。天の神様が上空からこれを発見して、女陰だと思って思い切り日光の射精を授けてくださり、その土地が実り良い豊潤な土地になるよう古代人は願っていたことでしょう。

・・・ところで、この女陰岩のある山は、その昔、神武天皇の兄である五瀬命(イツセノミコト)が山頂に冠を埋めたという伝説がある山で、通称冠山と呼ばれています。

この地には五瀬命に関わる伝承が多く、五瀬命を祀る神社も点在しています。

どうして五瀬命がこの地を訪れたかと言いますと、それはウエツフミにおける「鉱山開拓の方法」の記述にヒントがあります。

この本には鉱山を探す方法が詳しく書かれているのですが、それによると、

「川を遡って上流に行くと、やがて断崖絶壁の岩が現れる。そのような地形では地層が把握しやすく、埋蔵資源を確認しやすい」のだそうです。

 実際、この冠山がある地域は川の上流で細く長く、切り立った断崖があちこちに見られます。つまり、五瀬命は鉱物を探すためにこの地を旅していたと思われるのです。

 それを裏付けるように、この地には鉱山が点在しています。図には入りきれないのですが、冠山を越した反対側に「白丹」という地名の土地があり、これは白鉛を意味しています。

また、そこから少し足を延ばすと久住山系の山々が広がり、硫黄山という、文字通り硫黄の採れる山もあります。

 ほかにも大分県にはいくつかの鉱山が点在しており、中でも尾平鉱山は金や銀、水晶、そしてヒヒイロカネというダイヤより硬いと言われる謎の鉱石などを産出し、鉱物資源を求めてやってきた天孫族には宝の山であったようです。

 冠山の登山口近くにある「五ヶ瀬」という場所には五ヶ瀬神社があり、女陰岩とは向き合っている可能性があります。御祭神はもちろん五瀬命です。

 五ヶ瀬というのは言うまでもなく、五瀬(イツセ)の誤読でしょう。

 他にも、大龍神社、龍原神社、飛龍野など、ことごとく天孫族の紋章である「龍」の文字を戴く土地と神社が連続し、この土地が古代、五瀬命の直轄地であったことがしのばれます。

 この地には川が多いのですが、いずれの川も大分川に合流します。大分川を下るとそこは大分市。かつてのウガヤフキアエズ王国があったと目される場所で、五瀬命の父・ウガヤフキアエズノミコトが生活していたと考えられる場所でした。

 つまり、この場所から鉱物を船に積み込めば、五瀬命の本拠地まで船ですっと輸送でき、さらにそこから海路を辿って海外への交易にも行けるのでした。

 「山頂に冠を埋める」という行為は、その土地が自分の王権によって支配されているということを示威するものでしょう。しかし、五瀬命自身はそこに長期間滞在することができなかったため、冠を山頂に埋め、その地の人々は毎日その山を拝むことで五瀬命への忠誠を誓ったものだと思われます。

 ところでこの女陰岩、割れ目の内部が聖域です。膣を通って産道に入り、子宮にまで達すると、そこが生命誕生の地です。

 はたしてそこには何があるのか?・・・私は一匹の精子のように狭い岩盤の割れ目をくぐり、最深部に入って写真を撮りました。それが裏表紙の写真です。 

 写真の右側をご覧ください。石塔のようなものがあるのが確認できます。

これは鎌倉時代の墓石や宝篋印塔のように見えますが、私は、これはストゥーパ(石塔)であり、仏教とともにインドから伝わったものだと考えます。

 そして、これこそが五瀬命が許黄玉の子孫であることを物語る証拠であり、天孫族が金官伽耶国から日本にやってきた移住集団であったことを物語るものだと考えられるのです。ぜひ、表紙のストゥーパ、33ページの千如寺のストゥーパと見比べてみてください。

 表紙の写真が、許黄玉がインドから金官伽耶国に嫁いできた際に彼女の乗った船を風浪から守ったという伝説の娑婆石で、この石の力で彼女は無事に金首露王と会うことができました。この石は現在でも韓国・金海市の許黄玉陵の前に安置されていますが、このストゥーパこそが仏教伝来の証拠であり、信仰の対象でありました。

 女系相続社会であった天孫族一家は、一族の始祖である許黄玉を祀り続け、日本に来てからも祭祀を欠かさなかったと考えられるのです。

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