真説仏教伝来⑮ 金首露王 その4 首露王の時代の朝鮮半島(佐藤達矢稿)

佐藤達矢稿

真説仏教伝来⑮ 金首露王 その4 首露王の時代の朝鮮半島
今回は、首露王の時代の朝鮮半島の情勢はどうだったのか?ということを見て行きます。
朝鮮半島の古代史をきちんと整理している文献は意外に少なく、あまり多くのことはわかっていないようなのですが、ここでは小林惠子さんの「日本古代史シリーズ第1巻 江南出身の卑弥呼と高句麗から来た神武」(現代思潮新社 2011年)の記述を見て行きます。
この本による当時の朝鮮半島情勢は・・・。
BC109年 漢の武帝、衛氏朝鮮に5万の兵を送り込む。
BC108年 衛氏朝鮮滅亡。武帝、半島に楽浪郡、玄菟郡、臨屯郡、真番郡の四郡を設置。
※このうち真番郡が金官伽耶国のあたりだったと推測される。
BC82年  漢の支配が緩み、真番郡が廃止される。
BC75年  臨屯郡も廃止され、楽浪郡に統合される。
その後まもなく玄菟郡が高句麗に併呑される。
楽浪郡だけは表向きにはAD313年まで存続しますが、統治にあたる官僚はすべて在地の豪族でした(王氏、韓氏、高氏など)。
このうち高氏が高句麗の王系と繋がって行き、日本の神武天皇とも関係してくると小林氏は述べています。
AD12年  新の王莽、匈奴征討を計画して高句麗人を徴発、高句麗がこれを拒んだため
王莽軍は高句麗を攻め、高句麗王・騶を殺す。
この「騶(すう)」という王が広開土王碑文に伝えられる高句麗国の始祖・鄒牟(すうむ・チュモ)であろうと小林氏は比定しています。この人の名前は東明王、高朱蒙、衆解などといろいろあるのですが、高句麗の王家はこの初代東明王・騶が殺された後も存続し、二代瑠璃王、三代大武神王と続いて行きます。
AD32年  後漢光武帝、大武神を高句麗王に復位させる。
AD37年  大武神、楽浪郡を襲って国土奪還。高句麗国復活。
AD44年  光武帝、大武神を討つ。大武神死亡(高句麗本紀による)。
金官伽耶国の建国はAD42年。もっともこれは首露王が生誕した年なので、国としてまとまったのはもう少し後のことだろうと思われますが、首露王が生まれたとき、朝鮮半島は高句麗の大武神王に支配されていたことがわかります。そして首露王生誕後、すぐに半島は動乱の時代になりました。許黄玉が首露王のもとに嫁いできたのはAD48年です。彼女が戦塵の中、命を賭して旅してきたことがわかります。
首露王の父・イビカが北方から朝鮮半島に入り、大伽耶国の王女を娶ったことと照らし合わせますと、イビカが通ってきた道は、国としては楽浪郡ではあったものの、前漢の統治力が衰えて高句麗が勢いを取り戻し、国土を奪回しつつあった時期だったことになります。
当然、イビカは高句麗と親しい関係にあったか、親族関係にあったかのどちらかであったろうと思われます。高句麗とイビカ軍(月氏?)、そして許氏一族は、すべて漢帝国と敵対する勢力でした。兵数で圧倒的に優位な漢に対して、彼らは連合することで対抗しようとしていたのです。
・・・それはともかく、ここで気になるのは、朱蒙という名前と、「東国輿地勝覧」に記録された大伽耶国王の名前「始祖伊珍阿鼓(一に内珍朱智とも云ふ)」というという部分、および「伽耶山の神、正見母主は天神、イビカに感ずるところとなり、大伽耶王悩窒朱日と金官国王、内珍朱智の二人を産めり。悩窒朱日は伊珍阿鼓の別称、青裔は首露王の別称なり。」という部分で、「朱」という文字の一致があるところです。
これに対し、首露王は「悩窒青裔」と呼ばれており、明らかに「朱」という文字とは真逆、対立する文字で表記されています。
このことから私が推測しますに、「悩窒朱日」と「悩窒青裔」の兄弟は、「悩窒」の部分が彼らのルーツである民族の姓であり、中国語や朝鮮語では表記しづらい発音であったために変わった漢字が割り当てられているものと思われます。
で、次の「朱」と「青」のうち、「朱」は朱蒙の出た高句麗王室の家系を継ぐものであるという意味であり、「青」は別民族(月氏?)の家系を継ぐ者としてつけられた名前だと考えられます。
このあたり、漢の支配力が弱まった朝鮮半島になんとかして自分たちの国を復興させようとしている北方民族の姿が彷彿としてきます。
しかし、彼らの反漢同盟は長続きしませんでした。半島南部に進出した彼らは、その地に先住していた倭人たちとの関係に苦労し、時には友好的に、時には敵対しながら相対し、やがて日本列島へとその歩みを進めて行くことになります。
日本人にとって幸福だったことに、首露王の王室は支配欲が薄く、他国を征服しようとしたことはほとんどなく、軍事ではなく経済国家として貿易で国家を支えようとしました。
首露王の時代に金官伽耶国はそのインド航路を背景に貿易を通してかなり強大な国家になったのですが、伽耶諸国は最後まで連合国家のままで、ひとつにまとまることはありませんでした。首露王はその気になれば伽耶諸国を統一することができたかもしれえないのですが、彼は最後まで伽耶諸国とは戦わず、国教を犯してきた新羅軍と戦ったのみでした。
首露王の孫と思われる天孫ニニギが日本から大歓迎を受けて上陸を果てしているところが、この民族が極めて平和的な集団だったことの一例です。ニニギは日本に渡来した後も、日本中を鉱山の探索するために旅してまわり、人民から搾取するようなことはまったくありませんでした。記紀の作者がニニギを日本人の祖先神としてことさら丁寧に扱っているのも、そんな一面があったからです。(このあたりのことは「ウエツフミ」に詳しく書かれています)。
しかしながら、伽耶諸国はその歴史的な成り行き上、高句麗や新羅との確執をずっと引きずっておりました。そして、戦争を好まないというやさしい気質ゆえに、国家が統一を見ることなく、やがて新羅に滅ぼされてしまいます。
金官伽耶国は首露王の血脈を新羅と日本に残すわけですが、私はこの日本という国の地政学的特徴、「戦争を好まない高貴な精神的資質を有しているからこそ戦争に弱く、だからこそ戦争に敗れた人々が逃げてきて集まる場所」だったという事実に、自分が日本人として生まれたことのかけがえのない幸福を感じます。

(写真は韓流ドラマ「朱蒙」の一場面)

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