真説仏教伝来⑬ 金首露王 その2 首露王は人種的に何人であったのか?
前回、金官伽耶国の金首露王のルーツは北方の遊牧民族にあるのではないか、という話をいたしました。
このことに関して、井伊章さんはその著書「大倭国通史」の中で次のように書いています。
~天神イビカはさらに漢江を遡り、鳥嶺を越え、洛東江に出、中流の高霊に南下した。
「海印寺開山縁起」によると、伽耶山麓の土着豪族の娘を娶って高霊大伽耶国始祖阿鼓王朱日と洛東江河口の金海、加羅国始祖首露王青裔の二人が出生したと記されている。~
(大倭国通史 井伊章著 近代文藝社 1990年)
・・・さあ、ここに首露王の出自がはっきり出てきました。この説を検証してみましょう。
「海印寺」とは、現代でも伽耶山の麓、かつての大伽耶国の首都があったあたりにあるお寺で、大きな伽藍を持ち、肉食も妻帯も行わない数百人もの清廉な僧侶たちが日々修行しているところです。寺の名前が「インドの海」と読めることにご注目ください。
この地にやってきたイビカは大伽耶国王の娘と政略結婚し、大伽耶国王の座を譲り受けたのでしょう。これはスサノオの出雲進出やニニギのコノハナノサクヤヒメとの婚姻と同じで、新たにその地にやってきた者が戦争を行わずに話し合いで居住権を獲得し、政略結婚によってその国の王位を譲り受けるという進出方法です。この方法はお互いに傷つかずに済み、経済交流など副次的な利益も期待できるため、古代では頻繁に行われておりました。
この「イビカ」という名前、私には星の名前のように感じられます。たとえば乙女座のアルファ星は「スピカ」と呼ばれますが、なんとなく似た響きを感じるのです。
そして、星辰信仰を行うのは道教の特色ですが、同時に北方騎馬民族や物部神道の特色でもあります。イビカは物部氏の祖先である可能性もあるかもしれません。
また、このイビカについて気になるのは、記紀の神武東征条にも同じ名前の「井氷鹿」という人物が登場することです。
神武天皇と井氷鹿は熊野から吉野にかけての山中で出会うのですが、イビカの一族はその昔、日本にも入ってきていて熊野山中に住んでいたのかもしれません。
熊野信仰はこのイビカを祀るものかもしれませんし、神武天皇とは戦っていないことからも、イビカと神武天皇は同祖だった可能性を感じます。記紀に依りますと神武天皇は天孫ニニギの四世孫ですが、そのニニギは首露王の子か孫であったと思われるからです。
なお、この井氷鹿、尻尾の生えた異形の人として書かれています。このあたりには井氷鹿が当時の日本人とは別民族であったことが示唆されているのかもしれません。
あるいは、古代中国の北方民族の中には「犬戎」と呼ばれる一族がいたので、彼らのことを暗示しているのかもしれません。
そして、海印寺縁起では首露王のことを「青裔」と書いています。この文字、私には「青い目をした西域人の末裔」という意味に思えます。つまり、イビカは西域から来た白人系民族ではなかったか?・・・。
そのイビカと結婚して首露王を生んだ大伽耶国の王女の名前が「正見母主」です。
前にも書きましたが、この名前にはお釈迦様の教義の第一とも言うべき、「正見」という言葉が入っています。つまりこのお方は仏教徒だった可能性が高く、それもお釈迦様の直接の教えを受け継いだ人々、・・・「釈迦族」の末裔だった可能性すらあるのではないかと、私には思えるのです。
中国に本格的に仏教が入ってくるのは7世紀の玄奘三蔵の頃からで、それまで仏教は東南アジアや中央アジアに広がっていました。玄奘三蔵が経典を得に向かった先も中央アジアです。そこには月氏国という国があり、仏教が興隆していました。この月氏国はのちにクシャーナ朝という王朝を樹立しますが、このクシャーナ朝の版図の中にはあの「亀旨峰」の語源と思われる「亀茲国」が含まれます。亀茲国はのちに鳩摩羅什(クマラジーヴァ)という名僧を生み出すなど、当時の世界仏教の中心と言っても良いくらいの場所でした。
月氏国は中国の漢帝国とは戦争を繰り返し、同じ遊牧民族の匈奴とも敵対関係にありました。漢と匈奴はともに強大で、月氏国の人々は何度も戦争に敗れて敗走しています。
この頃の戦争というのは勝ったほうが負けたほうの兵士を皆殺しにするということが当たり前のように行われていたため、負けたときにはできる限り遠くまで逃げる必要がありました。
つまり、月氏が漢や匈奴との戦いに敗れるごとに月氏の難民が大量に発生し、その一部が朝鮮半島や日本にまで逃れてきていることが考えられるのです。
月氏は日本に逃げてきて、「月読命」として名前を残したのかもしれません。
以上のような根拠から、私は首露王の出自と、その周辺についての仮説をまとめてみます。
① 首露王の父、イビカは月氏、もしくは(匈奴以外の)北方遊牧民族の出自であり、漢に追われて中国東北部から朝鮮半島へと逃走してきた一族である。
② 首露王の母、正見母主は釈迦族、もしくはお釈迦様直系の教えを引き継ぐ民族であり、イビカが朝鮮半島に入る前から伽耶山付近に定住していた。
③ イビカは半島に定住権を得るため正見母主の父である大伽耶王と談判し、大伽耶王の娘を娶ることで大伽耶国の王となる資格を得た。
④ イビカと正見母主の間に生まれた首露王は、人種的には月氏族と釈迦族のハーフである。
⑤ 首露王がインド、サータバーファナ王国の王女・許黄玉を王妃に迎えたのは、釈迦族の社会に女系相続の習慣があり、改めて釈迦族の正当な嫡子(この場合は女性)を迎えるためであった。
この⑤について補足しますと、お釈迦様が生まれた頃の釈迦国もまた女系相続制度をと
っており、お釈迦様ご自身も従姉妹にあたる女性を妻として迎えています。お釈迦様は妻子を捨てて修行の旅に出るのですが、王室の跡取りがお釈迦様でなくて王妃の方だったとしたら、お釈迦様も少しは気楽な気分で王宮を後にしたのかもしれません。
二年ほど前、コロナ騒ぎが起きる直前、私は韓国の金海に行き、首露王の王城跡を見てきました。山頂にある首露王の祠よりさらに高い場所に、「山の神」の祠がありました。
「山の神」とは正見母主に相違ありません。金首露王一族の中ではつねに「かあちゃん」が一番偉いのでした・・・。
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