真説仏教伝来⑪ 日本の仏教はお釈迦様とは関係がない?!
日本は仏教国で、日本人の約70%が仏教徒だと言われています。しかし、日本に伝わっている仏教のほとんどはお釈迦様とは何の関係もありません。
・・・と言ったら、多くの方々が非常に驚かれるのではないかと思われます。
日頃、あまり意識しないことであり、日本のたいていの家には仏壇があって、そこには仏像が安置されていたりしますが、その仏像さえお釈迦様とはなんの関係もないものが多いのです。
奈良の東大寺の大仏や鎌倉の大仏のことをお釈迦様の像だと思っている人も少なからずあるようですが、これらもお釈迦様とは何の関係もありません。
みんな同じような姿かたちをしているため誤解されがちなのですが、正確には奈良の大仏は毘盧遮那仏、鎌倉の大仏は阿弥陀仏です。
以前にも申しましたが、お釈迦様自身は偶像崇拝を固く禁じており、「私の偶像を作ってはならない。私の偶像を拝んではならない」と弟子たちに厳しく命じておられました。
したがって、お釈迦様の像を作ること自体、それを拝むこと自体、お釈迦様の教えに背く行為なのです。
また、日本では鎌倉時代頃から多くの仏教宗派が登場し、現在まで続いていますが、これらの宗派もお釈迦様とは関係がありません。教えの中身も、修行法も、拝むご本尊も、お釈迦様とはまったく異なっているのです。
参考までに、主だった宗派のご本尊を並べてみましょう。
・浄土宗 阿弥陀如来
・浄土真宗 阿弥陀如来
・曹洞宗 釈迦牟尼仏
・臨済宗 釈迦牟尼仏
・日蓮宗 十界曼荼羅
・真言宗 大日如来
・天台宗 阿弥陀如来
こうしてみると、曹洞宗、臨済宗の二派だけがお釈迦様をお祀りしています。
密教と呼ばれる真言宗、天台宗は大日如来、阿弥陀如来以下十三の仏を祀り、その中には「釈迦如来」も入っていますが、これをご本尊とする密教寺院はほとんどありません。
基本的には密教はお釈迦様とは無関係です。おそらく、空海・最澄が中国から密教を持って帰る際、どこかにお釈迦様を入れておかないと仏教ではないということがばれてしまうため、釈迦如来という仏さまを作り出し、祀る対象に加えたのだろうと私は考えています。
また、阿弥陀如来という仏さまは、もとをたどるとお釈迦様と同じインドの王国で王子として生まれた人物のようです。が、お釈迦様とは別人です。
そして、禅宗と呼ばれる曹洞宗・臨済宗の二派はお釈迦様を本尊としてはいますが、その修行法の主体は座禅であり、教義の中身はお釈迦様の教えではなく、ナーガルージュナ(竜樹)という人物の説いた「無の思想」を根本とするものです。
また、ほとんどの宗派で唱えられている「般若心経」も、このナーガルージュナの思想をまとめたものと言える内容で、お釈迦様とは何の関係もありません。
・・・こうして整理してみると、私には「果たして、現在日本にある仏教を仏教と呼んで良いのだろうか?」という疑問が沸いてきます。
本尊も違い、教義も違い、修行法も違う宗教を、果たして同じ仏教と呼んで良いものでしょうか?・・・少なくとも、祈りを捧げる対象が違う神仏である場合には、それは違う宗教だと分類したほうが良いのではないかと私には思えます。
もう少し別な整理の仕方をしてみますと、日本に来た仏教は総称して「大乗仏教」と呼ばれ、チベット、中国日本などに浸透しています。これに対してお釈迦様の教えに忠実な宗派は「小乗仏教」と呼ばれ、ミャンマーやタイ、スリランカなどに深く浸透しています。
小乗仏教は「南部上座部仏教」あるいは「テーラワーダ仏教」とも呼ばれ、現在ではこの呼称のほうが一般的に広く使われているようです。
現在このような状況になっている理由として、古代には情報が伝わるのに時間がかかり、仏教は複雑な伝わり方をしたため、新しく入ってくる教えはすべて仏教だとその時々の日本人が思い込んだ、ということが上げられるでしょう。それに加えて道元や親鸞、日蓮のように、独自の工夫を加えて新宗派を起こす人も現れたので余計に状況が複雑になったものでしょう。
蛇足ながら、私はかつて真言宗の僧として得度し、毎日修行を行っておりました。
真言宗の修行の主たる部分は真言という一種の呪文を唱えるもので、宗教というより呪術と言ったほうが当たっているかもしれません。がそればかりではなくて、お釈迦様の教えも入っている部分があります。その代表的なものは「十善戒」と呼ばれるもので、これはお釈迦様の教えの中でも最も基本的なものだと思われますのでここに挙げておきます。
1.殺生(ふせっしょう) 故意に生き物を殺さない。
2.偸盗盗(ふちゅうとう) 与えられていないものを自分のものとしない。
3.不邪淫(ふじゃいん) 不倫など道徳に外れた関係を持たない。
4.不妄語(ふもうご) 嘘をつかない。
5.不綺語(ふきご) 中身の無い言葉を話さない。
6.不悪口(ふあっく) 乱暴な言葉を使わない。
7.不両舌(ふりょうぜつ) 他人を仲違いさせるようなことを言わない。
8.不慳貪(ふけんどん) 激しい欲をいだかない。
9.不瞋恚(ふしんに) 激しい怒りをいだかない。
10.邪見(ふじゃけん)誤った見解を持たない。
お釈迦様の教えがいかにシンプルで、わかりやすいものであったか、ご理解いただけると思います。
ただし、これはお釈迦様の教えそのものではなく、お釈迦様の学校の校則みたいなもので、お釈迦様の教えを学ぶための最低の心得、とでも言うべきものです。
お釈迦様は教えを説くとき、常に相手をよく見て、相手のレベルに合わせて話の内容を調整しておられたようです。が、その相手のレベルがあまりにも低すぎることが多かったため、このような教えを最初に説かねばならなかったようです。
現在でもこの「十善戒」が広範に唱えられているということは、「お釈迦様の教えを学ぶための修行」を行う、という、学習以前の段階で留まっている人がいかに多いか?ということを示しています。
・・・しかし、こんなことを言っている私も、この十善戒を守れているかというと、なかなかどうして、過去、数えきれないほどこの禁を犯しています。
言い換えれば、たったこれだけのことを終生守り続けることさえ並みの人間には至難の業であり、お釈迦様のお膝元にたどり着くまでの道ははるかに遠いものだとも言えるでしょう。
いずれにしろ、日本における釈迦仏教の痕跡は、ほとんどこの「基礎の基礎」のところで終わっています。それに続く教義は南部上座部仏教、あるいはテーラワーダ仏教という宗派に受け継がれ、タイやミャンマーで多く学ばれましたが、日本にその後来たのは「大乗仏教」という、お釈迦様の教えとは関係のない教えでした。それはもはや、同じ宗教ですらないと言えるほど内容が異なっており、崇拝するご本尊さえ入れ替わっています。
しかしながら毎日崇拝する神様が、違う神様に変わったならば、それは同じ宗教と言えましょうか?
日本人社会というのはこのような矛盾さえ寛容に受け入れる社会なのですが、お釈迦様の教えを正しく理解しようとするならばその教義は大乗仏教と切り離して考えねばなりません。
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