真説仏教伝来⑨ 長遊禅師とナーガルージュナ(佐藤達矢稿)

佐藤達矢稿

真説仏教伝来⑨ 長遊禅師とナーガルージュナ

 金官伽耶国初代王妃・許黄玉の兄・長遊禅師はたいへんな高僧だったようですが、彼がどんな教えを広めたのかということを明らかにするためには彼の時代の仏教がどんなものだったのかということを整理しておく必要があります。今回はこのことについて掘り下げて行きます。

仏教において大きな事件が起こった年代を整理しますと、

・BC383年  お釈迦様 入滅(中村元氏の説)。
・BC268年頃 アショーカ王即位。
・BC150年頃 ナーガルージュナ(龍樹)生誕。
・AD20年頃  長遊禅師 生誕。

 いずれもいろいろな説があって年代の特定が難しいのですが、おおむねこのような感じだったであろうと思われます。

 お釈迦様は生前、いかなる経典も書き残されませんでした。それは、お釈迦様の活躍された北インドにはヴェーダというものがあり、「言葉は聖なるものであり、決して文字にして書き残してはならない」という厳格な価値観が共有されていたからです。

 お釈迦様の死後、弟子たちによってお釈迦様の教えの整理が試みられ、やがて文字で書かれた経典も生まれました。しかし、それぞれの弟子によって自覚しているお釈迦様の教えは微妙に異なる上、時代が下がるにしたがって、お釈迦様とは関係のない人の言ったことも経典の中に書かれるようになりました。

 これではいけないと、お釈迦様の本来の教えに立ち帰ろうとしたのが南部上座部仏教、あるいはテーラワーダ仏教と呼ばれる一派で、現在はタイやミャンマーなどに広く行き渡っています。

 これに対して、お釈迦様も仏陀(悟った人)のひとりであり、お釈迦様本人の説いた教えではなくても仏陀の教えを説くものであればそれは経典となりえるという考えで広まったのが大乗仏教です。大乗仏教はこうした理由で発祥したために様々な宗教・宗派の教えを幅広く取り入れて行くことになり、その底辺は広大な広がりを見せていました。

 こうした時代に登場したのがナーガルージュナ(中国語訳で龍樹)です。

 このナーガルージュナこそ八宗の祖(すべての宗派の祖という意味)と呼ばれ、大乗仏教の大成者であり、現代の日本に広がっている仏教のほとんどの宗派のルーツと言って良い人物です。
 ナーガルージュナが生まれたとき、仏教はすでに大乗・小乗に分かれ、混沌とした情勢にあったようですが、彼はその時代に存在したほとんどすべての経典に目を通し、それらの教義に精通したうえで、新たに「無の論理」あるいは「唯識思想」という思想哲学を打ち立て、仏教中興の祖になりました。

 「般若心経」という経典は、形式的にはお釈迦様が、その弟子のシャーリプトラに向かって話した内容であるように書かれています。しかしその内容はほとんどすべて、ナーガルージュナの展開した理論を要約してあるもので、お釈迦様の教えではありません。

 また、この経典の最重要部分は、最後の「般若心経」という文字に終わる直前の十八文字にあり、これは密教のマントラ(真言)の中でも最強のものであり、あまりにも強力な呪文であるがゆえにみだらにこれを唱えることは許されず、必ず前段部分の教えを反芻したのちにのみ唱えることが許されると規定されて作られたものだと私は解釈しています。

 お釈迦様自身はこのような呪文・呪法の類を心底嫌っておられましたので、このような教えをお釈迦様が残すはずはないのです。
 ですから、「般若心経」の成立はナーガルージュナ以降。真言を大切にした密教僧のひとりがまとめたものだと私は考えています。

 では、お釈迦様が残した教えとはどんなものだったのかというと、それはどちらかというと道徳やモラル教育に近いものでした。

 お釈迦様は日々、多くの弟子を導いておられましたが、当時のインド社会というのは様々な怪しげな宗教や教義が入り乱れ、得体のしれない妖怪のような神々が跋扈する環境にありました。
 火が神様であるとか、川が神様であるとか、猿が神様であるとか、いろんなことを言う教祖たちが数多く、お釈迦様としては弟子たちに自分の得た悟りの中身を説いたところで理解させるのは難しいと判断し、まずは人間として正しい社会生活を送るための心得を説いたのでした。

 ただし、モラル教育と言ってもそこはさすがにお釈迦様で、単なる礼儀作法や道徳教育には留まっておらず、そこにはお釈迦様特有の諦念である「人は必ず死ぬ」「人は苦しみから逃れることはできない」という独特なニヒリズムとも言うべき人生観が入っています。

 ナーガルージュナの「無の論理」は、このお釈迦様の虚無思想を発展させたものとしても捉えられ、ここにおいてナーガルージュナがお釈迦様の系統とつながります。

 ナーガルージュナは南インドの生まれのようですが、活躍した場所はサータバーファナ王国。かつてのコーサラ国であり、お釈迦様が生前活躍された場所でした。
 そして、長遊禅師もまたサータバーファナ王国の王室の王子だったのです。

 ここでもう一度、ナーガルージュナと長遊禅師の生存年代を確認してみましょう。
 ナーガルージュナが50歳で死んでいるとしても、長遊禅師の生まれた時代との差は100年そこそこ。この二人は生存年代が近く、長遊禅師がナーガルージュナの影響を濃く受けていたとしても不思議はありません。

 さらにこの二人の共通点を探しますと、ナーガルージュナの「ナーガ」は龍、もしくは蛇という意味で、長いものの例えにも使われ、「長い」という日本語の語源でもあります。
 長遊禅師の「長」もナーガルージュナに関連したものかもしれません。

 また、その後、長遊禅師の子孫たちは天孫族となって日本にやってくるのですが、この天孫族の家紋が「龍」「蛇」なのです。

 歴史上、龍の紋章は、中国では皇帝、日本では天皇家のみに使用が許された最高の紋章でした。そのルーツはナーガルージュナなのかもしれません。

 ほかにも、長遊禅師には様々な興味深い側面があり、単なる一僧侶としては説明しきれない部分があります。次回以降はまた、そのことに触れたいと思っています。

南インドナーガルジュナコンダ遺跡

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