真説仏教伝来⑥ 長遊禅師(その1) (佐藤達矢稿)

佐藤達矢稿

真説仏教伝来⑥ 長遊禅師(その1) 初めて日本に仏教をもたらした人物。

 許黄玉と一緒に金官伽耶国にやってきた長遊禅師(長遊和尚、長游禅師、宝玉禅師などという名前でも呼ばれます)。この人こそが日本に仏教を伝播した人物だと私は考えています。

 金官伽耶国の遺跡からは多くの仏教用具や仏教に基づく装飾品等が発掘されています。
それなのにどうして今まで「最初の仏教伝来」として扱われていなかったかというと、どうやら「仏像や経典が発見されていない」という理由によるもののようです。

 しかしながら私はこの解釈には納得できません。それはおかしいと思います。
実際には伽耶国の遺跡から、仏像も仏具も発掘されているのです。世の学者たちはいったい何を見て判断しているのか?・・・(この点については今後何度か詳述します。)

 そもそも、お釈迦さまはその教えの中で、偶像崇拝を堅く禁じておられました。
「わしを拝んではならぬ。わしの偶像を作ってはならぬ。」と、ことあるごとに弟子たちに強く訓示し、戒めておられたのです。仏像が作られるようになったのはお釈迦様の入滅後、数百年経過してから。お釈迦様の真の教えが伝わりにくくなってからのことでした。

 許黄玉と長遊禅師の時代にはまだお釈迦様の真の教えが残っていたものと私は考えています。なにより、この二人は釈迦族の末裔が生き延びた土地・サータバーファナ王国の生まれでした。この二人には釈迦族の血筋が入っているのではないかとさえ私は考えております。釈迦国を征服したコーサラ国の王が釈迦族から王妃を迎えたように、サータバーファナ王国の王も、貴種である釈迦族から王妃を選んだ可能性はおおいにあると考えます。
滅んだ国の姫を勝った国の王子が娶るという婚姻は古くから行われておりました。そうすれば再び戦争が起きることを避けやすくなるからです。

 ところで、長遊禅師は金官伽耶国に到着した後、王宮には近づかず、伽耶山に籠って修行三昧の日々を送っていたようです。そしていくつかの寺を建立して仏教を広め、許黄玉と金首露王の間にできた十二人(一説には十三人)の子供のうち、なんと七人までを僧として出家させ、「七仏寺」という寺で修行三昧の生活を送らせた後、すべての息子たちを成仏させ、天に昇らせたという記述が「三国遺事」に残されています。

 物欲に執着せず、むしろこれを憎み、世俗を離れてひたすら修行に精を出すという生き方は仏教の精神そのものであり、お釈迦様の教えた教義の本質を継承するものです。

 そして注目すべきは、長遊禅師が首露王夫妻の子供の大半を出家させているという事実です。
この事実からわかるのは、長遊禅師が首露王と許黄玉に対して圧倒的な影響力を持っていたということです。長遊禅師は時の国王と王妃に対して「子供を差し出せ」と要求することができ、国王夫妻はそれを拒むこともできなかった・・・いや、おそらくは夫妻ともに長遊禅師の徳の高さに心服しており、喜んで子供たちを預けたのでしょう。

 ・・・しかし、問題は「7人の息子たちはすべて天に昇って行った」という部分です。
この記述が真実である可能性は薄く、古文書がこのような書きかたをしている時にはなにか、知られたくない事実が隠されているはずで、この場合、子供たちは外国に行ったのではないかと私は考えます。

 ここで、古代史の文献に多く登場する「天」という文字について触れなければなりません。

記紀においても「天〇〇命」という名前の人物が多数登場しますが、この「天」という文字がついている人物はほぼすべて半島から日本に来た渡来人で、もう少し規定するなら、伽耶国から日本に渡来した人を指すようです。

井伊章氏(大倭国通史の著者)によりますと、「天」とは失われた故郷を指し、何かの事情で故郷に帰れなくなった人が冠する名前だということです。
記紀に登場する「天〇〇命」の多くは朝鮮半島の伽耶国を生地とする人々で、日本に帰化し、日本に永住するようになった人についた名前であろうと思われます。

また、記紀には「天津神」「国津神」という表現で人物を表現している場合があり、この場合「天津神」とは半島出身者を、「国津神」とは日本列島生まれの人を指しています。

たとえば猿田彦が天孫ニニギに初めて会ったとき、「私は国津神です。」と言って挨拶していますが、この場合の神というのは領主という意味であったと思われます。猿田彦は日本のどこかに領地を持つ豪族の首長だったのです。

そして、半島の文書である三国遺事の表記で「天に帰った」とあるときは、「天」とは逆に日本を指すのではないか?・・・と私は考えます。つまり、半島の人から見ると日本が「天」になるわけです。
半島の人の手で書かれた三国遺事ですから、祖先が日本に行ったという事実は隠したかったのかもしれません。

首露王の出生が卵生伝説(卵から生まれたという話)で粉飾されているように、古代の国王が他の国から来たとか、他の国に行ったとかいう事実は隠しておきたいという意図が古文書には多く見受けられます。これは韓国に限らず日本の古文書にも見られる特徴で、特に記紀においてはそのやりかたで史実が著しく秘匿、改ざんされています。

前々回にご紹介しました首露王と許黄玉の子供たちの系図が真実だとすると、この夫妻の子供十一男一女(一説には二女)の大半は日本に渡っています。奇しくも三国遺事の記する「天に上った人数」と一致するのですが、その行き先と行った先の繁栄の仕方がすごいのです。

再述しますと、四男は天思兼命。信濃の阿智氏の祖。六男倭得玉は尾張氏の祖。八男豊玉は宇佐氏の祖。九男倭武日は大伴氏の祖。十男日奉益継は日奉氏の祖。十一男居添君は阿智祝部。二女美穂津姫は大物主あるいは大国主の妃(以上でちょうど七名!)。

 これを信じるか信じないかは人によって様々でしょう。特にこの説を裏付ける証拠と呼べるものはなく、あくまでもひとつの仮説に過ぎません。が、当時の時代環境を考えるとき、そういう事実が起こっていてもおかしくはない状況にありました。そう考えても歴史的な齟齬が発生せず、むしろ、そう考えたほうが自然に説明のつく事跡がずっと多いのです。

 たとえば、金官伽耶国は貿易立国であり、大いなる自然の恵みと膨大な地下資源を手つかずで残していた日本列島は垂涎の地であり、列島の人々と誼を結んで貿易を拡大することはこの国にとって最優先の課題だったと仮定すると、天孫ニニギ降臨の理由がわかります。
 彼らの目的は鉱山の開拓にありました・・・。 

 そして私は、長遊禅師自身も一度は日本にやってきているのではないかと考えています。

 その場所は九州。現在の福岡県糸島市。ここにある雷山という山こそ日本初の仏教伝来の地であり、長遊禅師が開山した場所だと思われるのです(続く)。

(写真は韓国の金海博物館に展示されている、金官伽耶国の遺跡から発掘された腕輪と銅器。仏教用具だという説明はついておりませんが、これが数珠と香炉(線香立て)であったとしてもなんら不思議はありません。)

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