伊都国王はスサノオか?
■海の支配者スサノオ
アマテラスのモデルは卑弥呼ではないか?という説は、古くは白鳥庫吉氏、和辻哲郎氏に始まり、今は安本美典氏らが唱える。理由は主に両者のプロフィルの類似。例えば次のようなものだ。
①日神信仰の権威
②夫がいない
③政を補佐する弟がいる
確かにそう考えると、記紀と魏志がリンクし、腑に落ちる感がある。卑弥呼が仮にアマテラスとすれば、彼女を補佐した弟とはもちろんスサノオ。この荒ぶる男を誰に比定するか? 邪馬台国に敵対した狗奴国王を当てる説もあるが、私は伊都国王に比定したい。理由はスサノオの海神的なキャラクター、韓半島にゆかりを持つとされる点が、対馬海峡に制海権を持つ伊都国王に合致するからである。
■伊都国グループの支配体制
倭国の政治と軍事を支配する伊都国王は大率(一大率)を使って武力で従えた北の玄界灘に面した諸国を検察する。そのために各国の長を国造的な官に任命し、補佐する副官兼監視役として大率直属の武官ヒナモリ(夷守)を配置したのではないか(図:伊都国グループの支配体制)。
末盧国に官をおいたかは不明だが、伊都国王が直轄したか、親藩的な存在、文字通り”まつろう”国だったのかもしれない。
■スサノオの追放
スサノオは後に乱暴狼藉を働き高天原を追放されたと日本書紀にある。
このスサノオ追放劇を、卑弥呼が死んだ後に起こった倭王の座を巡る争いで敗れた伊都国王の追放とみる。
もとより倭国は伊都国、邪馬台国、投馬国の三勢力の連合であり、伊都国の支配力は女王国より北の諸国にしか及んでいなかった。なぜならそこに駐在した郡使が官名・戸数を把握できたのは北の諸国に限られるからである。
卑弥呼を盟主としていた邪馬台国諸国は、伊都国王による中央集権的支配を嫌い、新女王の台与を擁立して抵抗し、遂には伊都国王スサノオを降す。おそらく投馬国が邪馬台国側に付いたのだろう。
卑弥呼(アマテラス)が天岩戸に隠れ、台与として?復活した逸話がそれに重なる。
しかし追放とは倭国側の視点であって、もしかすると伊都水軍を引き連れての倭国連合離脱だった可能性もある。
■ソシモリの処とは?
スサノオが息子のイソタケルを連れ落ちのびた先は、日本書紀では「新羅国の曽尸茂梨(ソシモリ)の処」とされ、その比定地もよく議論の的になる。
私は伊都国が伊西(イソ)国に置いた駐在武官の所ではないかと考える。伊西国とは3世紀末まで現在の慶尚北道南部の清道郡付近にあったとされる国である。
つまり北の諸国にヒナモリ(夷守)を置いたように、伊西国にもイソシモリ(伊西志守)という駐在武官を置いていたのではないかと想像するのである(図:伊都国グループの支配体制)。イソシモリ→ソシモリの語頭母音欠落はたまに起こること(例:オキナガ→キナガ)
伊都・伊西の交流の確証はないが、後述する五十迹手(イトテ)の存在が手がかりとなる。また三国史記には178年に卑弥呼が斯盧国に遣使した記事があり、辰韓・弁辰地域との往来は頻繁にあったと思われる。
■伊西国について
日本書紀に、仲哀天皇は出迎えた伊都の豪族五十迹手(イトテ)を「伊蘇志」と讃え、それで人々は彼らの本国を「伊蘇国」と呼ぶようになり、それがなまって伊覩(伊都)国となったとあるが、これはおそらく「伊西国」の知識が無かった8世紀の編纂者の誤りであろう。
筑前国風土記逸文に、「五十迹手奏ししく、高麗の国の意呂山に、天より降り来し日桙の苗裔、五十迹手是なり」とある。つまり五十迹手はアメノヒボコの子孫、祖国は韓の「伊西国」と考えられる。
ところで伊西国は「三国遺事」では37年に建国したものの42年には斯盧国に滅ぼされている。かたや「三国史記」では同じく斯盧国に297年に滅ぼされたとと食い違う。但し国名は「伊西古国」である。
42年といえば金官加羅建国の年、想像であるが、当初斯盧国の南、ウルサン辺りにあった「伊西国」が斯盧国に圧迫され、「金官加羅」の母体となり、あるいは合流して建国したのではないか。
清道郡の「伊蘇古国」は伊西国再興を目論む勢力が後に建てた国かも知れない。(図:伊西国の滅亡)
■イソタケルは後のニギハヤヒ?
スサノオの子のイソタケル(五十猛)は、すなわち伊西の勇者と読める。彼の故国も伊西国かも知れない。
ソシモリに馴染めなかったスサノオは、イソタケルとともに出雲方面に戻る。おそらく物部神社や五十猛神社がある島根県大田市辺りであろう。おそらく伊都国王時代に出雲の大国主に強いた国譲りは済んでおり、スサノオの子のアメノホヒが出雲王になり、イソタケルは更に東を、物部を率いるニギハヤヒとして侵攻し支配地を拡げたと想像していいる。
ニギハヤヒはまたアメノヒボコと重なることも指摘しておきたい。
丹波の出石神社には新羅の王子アメノヒボコがしばしば氾濫を起こす円山川の治水のために瀬戸・津居山の間の岩山を開いて濁流を日本海に流したという逸話が残る。
同様の話が法庭(のりば)神社にはニギハヤヒの事蹟として伝わるのだ。
私はイソタケルは後のニギハヤヒでありアメノヒボコも同一人物か、かなり近い存在と考える。
そうすると物部が祀る布留の石上(いそのかみ)神宮はまさに伊西神神宮と読めるのである。
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