スサノオの足跡㉛ 徐福の正体(佐藤達矢 稿)

佐藤達矢稿

スサノオの足跡㉛ 徐福の正体

徐福について、改めてその人の素性と行いを検証してみたいと思います。

徐福は古代の伝説の王・黄帝の血脈を引き、山東半島に勢力を張った徐国の王家の嫡子。

当時の中国全体を俯瞰しても、名門中の名門の御曹司だったわけです。

しかし、徐福が成人した頃には徐国は斉という国に取って代わられており、徐福はその斉国の丞相となっていました。

その斉国も秦の始皇帝に滅ぼされ、徐福はやむなく始皇帝の配下となり、始皇帝の命を受けて、不老不死の仙薬を探しに日本にやってきます。

この徐福の行動について、「始皇帝を騙して日本に亡命した策略家」としてとらえている文章が散見されますが、これは見当違いです。

徐福は始皇帝の命に忠実な家臣であり、まじめに任務を遂行しておりました。

それは、彼が日本全国の、三十か所以上もの地域に上陸した伝説を残していることからもわかります。また、日本のみならず、徐福は朝鮮半島の各地にも上陸伝説を残しており、彼がいかに熱心に不老不死の薬を探して歩いたかということがうかがえます。

中でも、韓国・済州島の漢拏山と日本の富士山には濃厚な徐福伝説が残っており、これらの山を伝説の蓬莱山ととらえ、山腹をくまなく探索して歩いた徐福の姿が彷彿されます。

徐福が日本に出発してから1年ほどで始皇帝は亡くなっており、徐福は風の便りでそれを知ったのかもしれません。当時から日本と大陸の間で交易は行われていましたので、そうした交易商人と徐福は会っていた可能性があります。

始皇帝が死に、秦が滅びたことを知った徐福は、帰る場所を失いました。

このとき、不老不死の仙薬を探すという使命も消滅したはずですが、それでも徐福は仙薬探しをやめませんでした。

それはおそらく、方士としての徐福の研究心と、真実を見極めたいという執念によるものだったでしょう。韓国と日本をくまなく捜し歩くという行動は、とても一年や二年でできるものではなく、時間も経費も膨大にかかるものであり、単なるミッションの遂行とはとらえきれないものだからです。

「方士」という言葉をウイキペディアで調べてみますと、「方士とは、紀元前三世紀から西暦五世紀の中国において、瞑想、占い、気功、練丹術、静坐などの方術によって不老長寿、尸解(羽化)を成し遂げようとした修行者である。」と書かれています。

徐福は始皇帝に仕える前から方士でありましたので、不老不死の仙薬を探すのは本人の願望でもあったわけです。この、方士としての徐福の熱意が日本中、韓国中を旅し、伝説を各地に残したと考えられます。

また、不思議なことに、徐福の子孫と言われる人々は、本国の中国に留まらず、日本、韓国、台湾にも残っています。徐福の死後二千二百年も経過した現在でもそれだけの子孫を残しているということにも驚嘆させられますが、子孫が広がった範囲の広さにも驚かされます。しかも現在はそのすべての地域に「徐福協会」なる団体が設置され、日々、徐福の研究が行われているようです。

そして、日本においては、徐福こそがヤマト王権確立の母体となっており、徐福の孫である天村雲命がヤマト入りして磯城王朝を樹立した史実をベースとし、同じく徐福の子孫である物部氏の系譜を引く五瀬命がヤマトに攻め込んだ史実を合わせ、記紀の「神武東征譚」は書かれているようです。

記紀には徐福についての記述はどこにも書かれておりません。これは、当時の編纂者が日本の歴史を中国とは関係のない、独自の歴史を持っているものとして編纂する必要があったためで、そのため中国と関係の深い徐福や卑弥呼の記述は削られたのですが、記紀をよく読み込んでみると、徐福の名前こそ登場しないものの、徐福(あるいはその子孫)の行跡を神武という名前にすり替えて語っているようなところがあり、まったくのデタラメとは言えない書物であることがわかります。

記紀の場合、大まかな歴史の流れや国家成立の過程などはきちんと整理されて書かれていますが、人名や場所、時期等を相当に入れ替えており、真実の歴史がわからないように細工されているといっても過言ではないほどの改ざんが見られます。

しかし、よくよく読むと、「これは実は○○のことを言っているのではないか?」と思える箇所がたくさんあり、他の古史古伝の内容と比較対照することによってそれは浮かび上がってきます。

現在の日本の歴史教科書には、卑弥呼の記述は会っても、徐福の記述はありません。
それは単なる伝説として取り扱われています。

しかしながら、日本最初の統一王朝であるヤマト王権の発祥を考えるとき、そのルーツは徐福なのです。この点において徐福は日本古代史上の最重要人物と言っても過言ではなく、われわれは神武天皇という架空の存在よりも徐福のことを、まず、覚えておかねばなりません。

しかし、残念ながら、徐福渡来の「決定的証拠」はまだ出て来ておりません。このことが徐福を単なる伝説として扱う論者の格好の理由になっているのですが、もし、その決定的証拠がどこかで出土したら、歴史の教科書は書き換えられることになるでしょう。

徐福が滞在したと思われる吉野ケ里遺跡からは、中国から渡来したと思われる機織り機や、始皇帝使用のものと酷似した両刃の西洋風な銅剣などが出土しています。これらに加え、方士の扱っていた仙術の道具とか、始皇帝時代の文書、官位を示す冠などが出土すれば確かな裏付けとなりうるのですが、そういた遺物はまだ出土しておりません。

徐福の墓と呼ばれる場所は日本にいくつかあるのですが、そこに本当に徐福が眠っているのかどうかは判然としません。もともと徐福が方士として行っていた修行法のひとつに尸解(しかい)というものがあり、これはいったん死ぬことによって仙人になるという秘術で、これを行った修行者はその死体も残さずに、他の離れた土地で仙人となるそうです。

徐福がこの尸解という仙術を行ったのかどうか?・・・これもはっきりしませんが、古事記にはこの尸解とよく似た、神武天皇の蘇生譚があります。

熊野山中で倒れ、虫の息となった神武天皇のところに高倉下という人物が現れ、布都御魂という神剣を振るうと神武が忽然と目を覚ます、というストーリーですが、この高倉下は徐福の孫、神武天皇もまた天村雲という徐福の孫がモデルであったことを考えると、古事記はこんなところにも、古代史の真の主人公がだれであったのか、というヒントを提示してくれているのかもしれません。

(写真は吉野ケ里遺跡の墳丘墓と、そこから出土した銅剣)。

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