スサノオの足跡㉚ 八岐大蛇再々考(佐藤達矢 稿)

佐藤達矢稿

スサノオの足跡㉚ 八岐大蛇再々考

記紀に描かれた八岐大蛇の正体については様々な説がありますが、斉木雲州氏はこれを出雲の蛇神信仰を徐福集団が妨害したもの、と説明されています。

氏の「古事記の編集室(大元出版:2011年)」によりますと、古代の出雲人は蛇神信仰を持っており、斎ノ木にワラヘビを巻いて竜神祭りを行っていたようです。この風習は現代でも続いているらしいのですが、北斗七星を信仰する徐福の集団はこのワラヘビを切って回り、出雲人が抗議しても受けつけなかったそうです。

その結果、両者の衝突があちこちで起こり、とくに斐伊川の上流の村ではそれが多く、これが八岐大蛇の話として残った、と説明されています。

大元出版から出ている出雲王家の伝承本によりますと、これが出雲と徐福集団との軋轢の始まりであり、この後、徐福集団の者が出雲の王と副王を拉致し、枯死させるという大事件が発生し、追われる立場になった徐福は中国に逃げ帰ることになるのですが、これが記紀に描かれたスサノオの英雄譚「八岐大蛇退治」の真相かと思うと、なんとも味気なく、救われない気持ちにさせられるのですが、真実とは得てしてそういうものかもしれません・・。

もともと、八岐大蛇という存在は、新約聖書の黙示録に出てくる七頭の竜や、世界各地にある複頭の竜の伝説をモチーフに創作されたものだと思われます。

これをスサノオの手柄話として古事記に登場させたのは、出雲国造・果安という人物が古事記の編纂者の忌部子人に頼んだからで、その理由は、徐福の名前を聞くと、徐福が出雲で行った悪事を出雲人が思い出すから、だったそうです(斉木氏の本より)。

これには少し補足が必要で、徐福は出雲国王の娘を娶り、子供をもうけています。その子・五十猛命は物部家の穂屋姫と結婚して天村雲命を生み、この天村雲命がヤマトに入って、後のヤマト王権の原型を作り、天村雲命は神武天皇と名前を変えられて記紀に描かれているのですから、皇室のルーツである徐福が殺人犯であることは、記紀の編纂者にとっても都合が悪かったのです。よってこの部分は大幅に書き換えられ、徐福も天村雲命も記紀からは抹殺されたのでした。

ひとつのウソをついてしまうと、そのウソを隠すために、さらにいくつものウソをつかねばならなくなります。記紀はこうした経緯で作成されていった物語であり、世に名高い神武東征譚も、スサノオの八岐大蛇退治も、こうした捏造の繰り返しによる産物なのでした。
スサノオが八岐大蛇を退治する前、高天原にいた頃のエピソードは、スサノオにとって屈辱の歴史と言えるもので、宮中で乱暴狼藉を働いたり、人目憚らずに泣きわめいたり、勝手に家出して他の国に行ったりと、その問題児ぶりが、これでもか、と言わんばかりの筆致で描かれています。

おそらく、記紀の作者は、神聖な神であるアマテラスやツクヨミの事績に問題行動を記述するわけには行かず、しかしながら伝承されている重要な事件を伝えないわけにも行かず、悩んだ末に、「悪いことをしたのはすべてスサノオということにしてしまおう」と決め、悪事の類はすべてスサノオの所業であるという設定にしたのでしょう。
出雲における徐福の悪事もまた、こういう理由でスサノオにすりかえられたのでした。

・・・とはいえ、スサノオは日本古代史上最重要人物の一人であり、宗像三女神はじめ、あまたの神々の祖神でもあります。そのため、スサノオをただの悪人に終わらせておくわけにも行かず、記紀の作者は八岐大蛇退治という、起死回生の大英雄譚を入れることでスサノオの面目を回復させ、評価のバランスを取ろうと図ったものと思われます。

八岐大蛇については、斐伊川の氾濫の象徴であるとか、鉄の精製過程を模したものであるとか、現在のロシア・北朝鮮付近にいたオロチョン族のことだとか、さまざまな説がありますが、出雲の王家伝承による説を採ると、こうなります。

さて、それではここで、新たな疑問が湧いてきます。
記紀においては八岐大蛇退治に限らず、スサノオの事績は数多く語られていますが、出雲伝承においては「スサノオとは徐福のことである」と語られたきり、スサノオはまったく登場してこないのです。これはどうしてなのでしょうか?
記紀においては、スサノオが渡来した場所は「出雲の国の鳥髪山」であり、スサノオが八岐大蛇を退治した場所は出雲の八上地方でした。
時期としては、スサノオは徐福の出雲渡来より数百年遅い時期に渡来して来ているものと思われ、その他の古志古伝でもスサノオが実在の人物として出雲に渡来したことは動かしがたいと思われえる記述が山ほどあることから、徐福ではない別の「スサノオ」がいて、徐福とは別の歴史を刻んでいるとしか考えられません。

前回も申しましたが、出雲伝承はこの「真のスサノオ」の存在を隠しているような気配があるのです。
それには、「スサノオとは徐福のことである」と言った手前、別のスサノオの存在を語るわけには行かなくなった、という理由があることでしょう。しかし、それ以外にも、出雲人が語ることのできない重要な秘密があったのかもしれません。

出雲伝承では、出雲国はインドから来た人々が建国した国、と語られています。
しかしながら、この地方にある「四方突出型方墳」という墳墓形態は高句麗のものと酷似しており、そちら方面からの人の渡来もあったのではないかと思われます。
古代人が朝鮮半島から船で日本に渡ろうとすると、黒潮に流されるため、九州に向かった船も出雲あたりにたどり着きやすくなります。
沖ノ島という海上交通の要衝もあるのですが、ここから船を出してもやはり黒潮に流され、九州に向かって真っすぐに漕いでも、出雲あたりに流されやすいのです。

また、少し時代が下がると、天日矛という人物が出雲地方に渡来したという伝承も残り、古代出雲が朝鮮半島と無関係だったとは到底思えません。
さらに、出雲伝承には、出雲国と同じくらい古い歴史を持つ九州の伊都国や奴国、熊襲国と言ったクニの記述が見当たりません。また、天孫ニニギに関する話もまったく出てこないなど、不思議に思える点がいくつもあります。
その分、九州にあった宗像家との交流は盛んだったようで、出雲王家と宗像家の縁組や人の交流は豊富に描かれています。

以下、私の想像ですが、出雲国は奴国や伊都国とは敵対関係にあり、宗像家とは同盟関係にあった。そのため伊都国と縁の深いニニギについては語られず、同時に、ニニギの故郷、朝鮮半島にあった伽耶国とも縁が薄かった、ということではないか、と私は考えています。

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