スサノオの足跡㉗ 吉野ケ里遺跡出土の銅剣は布都御魂である(佐藤達矢 稿)

佐藤達矢稿

スサノオの足跡㉗ 吉野ケ里遺跡出土の銅剣は布都御魂である。

一枚目の写真は吉野ケ里遺跡から出土した銅剣のレプリカです。

100ヘクタールを超える広さを持つ吉野ケ里遺跡の一角、「北の墳丘墓」という場所から出土しました。

この場所は王族の墓地だったであろうという仮説があり、この一帯から出た甕棺の中にはこのような銅剣が一振りずつ収められていたということです。

私はこの銅剣こそ、古事記で語られる神剣「布都御魂」ではないかと考えます。

以下、その理由をご説明して参りましょう。

吉野ケ里遺跡は、徐福が二度目に渡来したときの拠点となった場所ではないかと思われます。

出雲王家の伝承で伝えられる徐福の渡来地は出雲と佐賀。そのうち佐賀に来た時に上陸したとされるのが、浮盃と言われる現在の筑後川河口地帯。

この浮盃から吉野ケ里まではわずか10キロあまり。古代は現在より海水面が高く、湾が内陸まで深く切れ込んでいたことを考慮しますと、当時は吉野ケ里まで船を着けられたものと思われます。

また、その浮盃には金立神社という神社が建っていますが、この神社の本宮がある金立山がまた吉野ケ里の西数キロの位置にあり、ここのご祭神の一柱は徐福なのです。

さらに、吉野ケ里の城壁の構造は、徐福が住んでいた中国の臨淄という都市の城壁とほぼ同じ構造。

これらのことから、吉野ケ里は徐福の建設した町であった可能性が濃厚なのです。
さて、それではその徐福と布都御魂がどう関係するかと言いますと、徐福の本名が徐市(ジョフツ)であり、布都御魂(フツノミタマ)とは、徐福の魂が入った剣のことである、という説があるのです。

古事記(日本書記もほぼ同様)において、布都御魂は実に劇的な使われ方をします。

古事記によりますと、熊野山中で敵の毒気に当てられた神武東征軍は全員が昏倒、神武天皇も倒れて意識を失い、全軍壊滅の危機を迎えます。

このとき、布都御魂を持って駆けつけたのが高倉下という人物。

高倉下が布都御魂を神武天皇の頭上にかざすと、たちまち神武は目覚め、ほかの兵士たちも次々と回復、復活した神武軍はヤマト地方になだれ込んで敵を制圧、国を平定します。

つまり、布都御魂は神武軍を危機から救い、日本という国の土台を築いた神剣として描かれているのです。

おまけに、高天原で神武軍の苦戦を知った高木神が武御雷命に救援を要請すると、武御雷命は「私が行かずとも、この剣があれば大丈夫でしょう」と言って布都御魂を高倉下に授けた、という、おまけのエピソードまで挿入されており、古事記の作者がことさらにこの剣の価値を強調したかったことがわかります。

ところが、出雲の口伝によりますと、神武天皇という人物は実際には存在せず、古事記では、徐福の孫にあたる天村雲命という人物が大和を平定した史実をもとに、神武天皇という人物が創作されているようです。

この天村雲命の腹違いの兄弟が高倉下。つまり、天村雲命と高倉下はどちらも徐福の孫ということになります。

古事記がどうして神武天皇を「創作」したかといいますと、編纂当時の帝であった天武天皇は、当時、中国の唐王朝に対して日本の独立性を主張しており(白村江の敗戦後の支配から抜け出そうとしていた)、中国人である徐福が天皇家の祖先では都合が悪かったからです。

さて、それでは吉野ケ里に戻りましょう。銅剣が出土した吉野ケ里の「北の墳丘墓」は王族の墓地であると言いましたが、それは当然「徐福の家族の墓地」だったはずです。そして、ここから出土した甕棺のほとんどに銅剣が一振りずつ入っていました。

ここで、二枚目と三枚目の写真をご覧ください。これは古代イスラエル王国のソロモン王が悪魔を使役したときに使ったと言われる72の紋章のうち、悪魔バアルと悪魔アスタロトの紋章と伝わるものです(この紋章があれば悪魔を使役できる)。

この紋章の中に、吉野ケ里の銅剣のような形が見えませんか?・・・。

そして、四枚目の写真をご覧ください。

これは布都御魂と一緒に石上神宮に収められている神宝「布留御魂」です。別名を「十種神宝」といい、どちらも物部一族の至宝とされています。

「布留御魂」の各パーツを悪魔の紋章に沿って並べ、線を引いてパーツ同士をつなぎ、最後にその真中に銅剣を置いたら、悪魔召喚のための魔方陣は完成します。

「永遠の生命を得るために悪魔に魂を売る」というストーリーは古典文学によく見られますが、徐福は剣を使って、同じようなことをしようとしていたのかもしれません。

実際、徐福の出身地である中国の山東半島は、古代にイスラエルから出奔した10支族の末裔が住み着いた場所であるという説があります。徐福自身にも10支族の血が入っていた可能性もあり、ソロモンの秘法が徐福に受け継がれていたことも十分考えられます。

現在、布都御魂や布留御魂は石上神社の秘宝とされ、一般人が見ることはできません。

一方で鹿島神宮には長大な日本刀が、「布都御魂である」とされて保管されているようですが、これはだいぶ後から作られた刀で、徐福の時代のものとは全く違うようです。

徐福の没後、徐福の子孫たちは「物部氏」となり、次第に勢力を拡大して東進します。

この物部氏の東進が、古事記において「神武東征」として描かれることになったようで、主人公の名前を変え、出自をごまかしながらも、布都御魂や高倉下を登場させ、神武天皇が徐福の子孫であることを暗示するようなヒントを随所に散りばめて描かれています。

そこには、古事記の作者が「事情があってこんな書き方しかできないが、後世の人が注意して読めば、真実の歴史に気づいてくれるはず」という期待のもとに作られた巧妙なレトリックがあるのでした。

また、「神武天皇」という呼称は後世に贈られた諡号ですから、人名を変えたとはいえ、古事記はまったくの虚実を描いているわけではありません。時系列や場所、人物の関係等がかなり作り変えられていますが、歴史をもとにした壮大なコラージュ作品と考えれば、実に巧妙に作られた複雑で精巧な文学作品と言えると思われます。

ただ、現代のわれわれが神武天皇の本名を覚えておくとしたら、それはヒダカサヌでも若御毛沼命でもなく、「天村雲命」が最もふさわしい、と言えるかと思われます・・・。

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