スサノオの足跡㉖ 古事記の神武東征譚に隠された徐福の血脈
出雲王家に伝わる伝承では、神武天皇という人物は実在せず、古事記における神武天皇譚とは、徐福の孫にあたる天村雲命という人物が大和地方の王になった史実をもとに創作された逸話のようです。
古事記(日本書紀もほぼ同じ内容)における神武東征の物語は、この天村雲命を神武天皇に置き換え、さらに何人かの人物の逸話を足して、あたかも神武天皇が九州から大和地方に遠征をして王権を築いたような物語に仕立て上げられたもののようです。
今回はこの古事記の神武東征譚が、なぜ、どのような史実をもとに作られたものなのか?ということを分析してみたいと思います。
まず、東征のスタートとなる高千穂から大和に向かう行程は、ヒダカサヌという、ウエツフミに記されたウガヤフキアエズ王朝第73代の王がモデルになっているようです。
古事記ではこの人物を五瀬命の弟として設定しておりますが、実際にはヒダカサヌと五瀬命の間には血縁はなかったたようです。
宇佐公康氏著の「古伝が語る古代史」という本においては、神武天皇は東征の途中、現在の広島市で死亡し、宮島の弥山に葬られたと書かれています。
宇佐氏の記述は宇佐神宮の代々の宮司家に伝わる口伝であり、信ぴょう性の高いものですが、それによりますと、神武天皇は宇佐に進軍した際に、地元の豪族・ウサツヒコの妻であったウサツヒメを自分の妻として迎え、宇佐を統治下においたのちに広島に向けて進軍した、という説明になっています。
古事記では、神武がウサツヒメを迎えるところまでは同じですが、その後、福岡(岡田宮)、広島(埃宮)、岡山(吉備宮)の宮を何年もかけて進み、最終的に大和に入ったことになっていますが、実際には一人目の神武天皇は広島で死んでいるのです。
広島以降、神武天皇が大和に入るまでの記紀の記述は、五瀬命の東征譚をなぞって描かれています。この「五瀬東征」は実際にあった物語であり、名草戸部という女酋長に毒矢を射かけられて五瀬命が死亡、竈山に葬られたというところまでは真実のようです。
が、実際には五瀬東征は五瀬の死によって失敗に終わり、五瀬軍は退却しています。
この先が古事記の作ったフィクションで、五瀬の弟・御毛沼命が伊勢から熊野道を回り込んでナガスネヒコの本拠地を奇襲、見事に破ってヤマト王権を確立させた、ということになっていますが、これは先述のように、天村雲命の大和入り・王位就任の史実をあたかも神武天皇が行ったかのように、架空の戦いを作り出して描いたもののようです。
なぜこんな欺瞞を書かねばならなかったかと言いますと、記紀が編纂された理由が「日本という国の独立性を中国に認識させるため」であり、中国人であった徐福の孫・天村雲命が開いた王朝が日本国の始まりであるということは絶対に秘さねばならない状況の中で書かれたものだからです。
ところで、当時、日本の南九州地方には熊襲国があり、この国は数千年の歴史を有しておりました(実際に、この地から6千年以上前の土器等が発掘されています)。
約3千年前、中国の周王朝の時代、大伯という人物が弟に王位を譲るため、王城を出奔して熊襲国に来た、という伝説が残っています。以降、中国は日本という国を大伯の末裔の国と認識していたようで、中国に残る多くの古文書にそのことが書かれています。
こうしたことから、記紀は神武天皇の出自を熊襲国であるように暗示し、大伯の墓があるとされる高千穂を神武東征のスタートラインに設定したようです。
大伯は周の文王の兄にあたり、中国史上でもトップクラスの名家の血筋になります。この人物が祖であるということは、記紀編纂当時の唐王朝の皇帝でも手出しが許されない国、と主張することができるわけです。
このため、神武天皇は熊襲王国から出た大伯の末裔の王、という設定で記紀に描かれ、徐福の名前は完全に消されました。
ところが古事記の作者には、虚構を描きながらも「なんとかして真実を伝えたい」という強い思いがあったようで、細部をよくよく読んで行くと、神武天皇が徐福ゆかりの人物であることがだんだんわかってくるような細工がしてあるのです。それは記紀と出雲伝承を比較参照することで明らかになるのですが、この部分を具体的に見て行きましょう。
① 古事記において、神武天皇が熊野山中で敵の毒霧を受けて全員昏倒したとき、高倉下という人物が現れて神武を救出する。この高倉下は出雲口伝によると徐福の子供であり、彼が神武を蘇生させるのに使った「布都御魂」という剣は徐福の剣である。
② その「布都御魂」がいかに重要な「生命蘇生の剣」であったかということを示すため、熊野山中において神武軍は全滅の危機に陥り、神武自身も昏倒して瀕死の状態になったところをこの剣によって救われた、という記述になっている。
③ その舞台となった熊野という土地は、徐福の子である高倉下が住み着いた場所で、徐福の子孫が熊野信仰を広めた場所である。
④ 神武がナガスネヒコを倒したとき、その義父として饒速日が登場するが、出雲口伝によれば、この饒速日とは徐福のことである。
⑤ 饒速日は神武天皇と同族であり、互いの神宝を見せ合うことでそれを確認する様が古事記に描かれているが、これは神武天皇が徐福の血を引いていることを暗示している。
⑥ 神武天皇が大和入りの後に結婚した蹈鞴五十鈴姫は、出雲口伝では天村雲命の妻となった女性である。つまり、記紀は配偶者を明記することにより神武の正体を暗示している。
・・・いかがでしょうか? 記紀の神武東征譚は、フィクションではありますが、これほどまでに精緻に徐福との関連を織り込んだ物語なのです。それは決してデタラメに描かれた偽書というべきものではなく、「時代の制約があって自由に描けない中で、なんとかして真実を後世の人に伝えたい」という作者の苦心が結実した精妙な暗号ともいえるもので、特に古事記を書いた作者の、複雑で豊潤な物語の作成能力には驚嘆の思いを禁じえません。
神武東征の物語は普通に読んでもドラマとして非常に面白いのですが、登場してくる一人一人の人物にしばしば裏の意味があり、その出現の場面や行動に様々な謎解きが込められているのです。それは極めて精巧に作られた推理小説とも言えるものであり、斉木雲州氏が「古事記の作者は太安万侶ではなくて柿本人麻呂である」と主張しているのも、「さもありなん」と思えます。人麻呂は「歌聖」と呼ばれるほどの天才歌人でしたから・・・。
(図は左が出雲口伝による系図で、右が記紀による系図。神武天皇に到るまでの人物の違いに注目!)。
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