スサノオの足跡㉔ 徐福=スサノオ説再考 徐福という人物のルーツ その2(佐藤達矢 稿)

佐藤達矢稿

スサノオの足跡㉔ 徐福=スサノオ説再考 徐福という人物のルーツ その2

前回、徐福のルーツは夏王朝の始祖・禹王の側近で会った伯益という人物であるという話をいたしました。
伯益は禹王から徐国の王として封ぜられ、以降、代々の王は徐姓を名乗るようになり、徐福もまたその末裔として徐姓なのですが、実はこれは通称であり、本当の姓は「嬴(えい)」というものでした。
そして、この「嬴」という文字にこそ大きな秘密が隠されているのです。

「嬴」という文字の意味を調べてみますと、海や沢、沼など、水のある所を示すようです。また、同時に「勝つ」という意味や「籠」という意味もあるようで、実はこれらがすべて、日本との関りを暗示しているのです。
そして、この文字にサンズイをつけて「瀛」としますと、この文字は日本を示す地名となります。

正確には「蓬莱」「方丈」「瀛州」という三つの島が伝説の不老不死の仙薬のある場所として道教の道士たちに語られていたらしいのですが、古代中国においてこれらの島は東方にあるとされ、日本列島のどこかを指していたようなのです(瀛州は沖縄という説もあり)。
また、古代中国の国内にも瀛州は存在し、それは徐福が生まれた徐国と重なっています。

つまり、徐福の生まれた「徐国」と「日本」は、古代においては繋がっていた一つの国として認識されていたようなのです。
このことを裏付けるように、日本の九州北部と中国の徐国の遺跡からは大量の甕棺墓が発掘されています。墓制が同じということは民族も同じだったと考えられ、やはりこれらの地域に同じ民族が居住していたことが推察されます。

甕棺墓の起源はちょうど徐福が日本に渡来した頃のBC200年頃と推定されています。
このことと、大元出版の本における徐福渡来の時期は一致し、徐福の第二次渡来がBC209年。このとき徐福は吉野ケ里に上陸、そこに国を作った、と書かれています。

たしかに、吉野ケ里からこれまでに出土した甕棺墓の数は3000余り。この数は徐福が男女3000人を連れて出航したとされる「史記」の記述と一致します。(もっとも、実際にはその数倍の数がまだ埋まっているという推測もありますが・・・)。

甕棺墓の分布を追って行きますと、この吉野ケ里の徐福王国がやがて、福岡市にあった奴国まで版図を拡大し、その地に「漢倭奴国王」の金印を下賜された王が誕生します。

この「奴国王」は徐福の子孫であった可能性が高く、だからこそ祖国・中国と親交を結ぼうと考えたものでしょう。金印を賜ったのも、中国側にも「奴国は徐福の末裔の国」という認識があったらかもしれません。

ところで、前出の「嬴」という文字には、もうひとつ重要な意味があります。それは、あの秦の始皇帝の姓もまた「嬴」だったということです。

始皇帝の本名は「嬴政」。

徐福の本当の姓もまた「嬴」でありましたので、この二人は同族だったのではないかと思われるのです。
もし同族であったなら、始皇帝が徐福を重用したのも無理からぬ話です。

さらに、始皇帝の死はBC210年。徐福の吉野ケ里渡来はBC209年・・・。
このことは何を意味しているのでしょうか?
主君が死んだら、「不老不死の仙薬を取ってくる」という使命もなくなるはずですが、徐福はその使命を果たすために再び日本に向けて出航しています。

おそらく、この二回目の出航は、始皇帝のためではなく、徐福自身が移住するためだったのではないか、と考えられるのです。
男女三千人の他に、五穀の種と百工を連れて出発した、という史記の記述にも、徐福の渡来目的が仙薬探しではなく、植民にあったことが推察されます。

そして、このことから、当時の日本列島における都市国家の関係があぶり出されてきます。

・・・徐福は九州にあった熊襲国、伊都国、狗奴国などを避けるようにして、それらの国から少し離れた場所にあった唐津湾から吉野ケ里に上陸した。

彼らは周辺の国と戦争を起こさないように留意しながらも、徐々に北方に勢力を拡大し、現在の福岡市周辺に奴国を築いた。

奴国は中国にルーツがあったから、歴代の中国王朝と親交を結び、金印を拝受するに至った。

やがてその地は邪馬台国となり、女王卑弥呼が登場する。卑弥呼もまた中国にルーツを持つ道士の家系だった。つまり、卑弥呼は徐福の子孫である。

そのため、卑弥呼は時の王朝・魏国に朝貢し、魏国もまた邪馬台国が中国にルーツを持つ国であることを知っていたので、卑弥呼の遣使を優遇し、「親魏倭王」の金印を授与した。つまり、「漢奴倭国王」の金印と「親魏倭王」の金印は同じ意味を持ち、時代が変わり王朝が変わっても中国と日本の緊密な関係は変わりないということを改めて示した友好の印である。

その後、神功皇后の時代になってから、朝鮮半島東岸に移動していた始皇帝の遺臣・秦氏が旧邪馬台国の版図であった日本の豊前地方に集団渡来する。秦氏は邪馬台国の時代から日本渡来を企図しており、天日矛から5代をかけてヤマト王権と関係を築き、一族から神功皇后を出すに及んでついに日本進出に成功した。

・・・さて、最後にもうひとつ、「嬴」という文字の持つ深い意味についてご紹介しましょう。

この文字には「籠」という意味もあると前述しましたが、徐福が最初の渡来時に寄港した出雲国の西にあるのが元伊勢と言われる宮津の籠神社。・・・この神社の神官・海部氏は徐福の子孫のようです(大元出版の本の記述)。この「籠」という文字にもなにやら「契約の箱」を思わせるものがあり、非常に意味深です。

また、「嬴」という文字には「沼」という意味もあると申しましたが、記紀で語られる神武天皇の本名は「若御毛沼命」もしくは「豊御毛沼命」・・・。

記紀の作者は時代の制約により、真実を書こうとしても書けない部分が多くありました。
そのため、神武天皇のルーツもかなり作為的に改ざんしていると思われるのですが、こんなところにこっそりと「真のルーツ」がどこにあるのか、ということを示唆してくれているのかもしれません・・・。

(写真は佐賀県、徐福を祀る金立神社のある金立山をバックに建てられた徐福像)。

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