スサノオの足跡㉓ 徐福=スサノオ説再考 徐福という人物のルーツ(佐藤達矢 稿)

佐藤達矢稿

スサノオの足跡㉓ 徐福=スサノオ説再考 徐福という人物のルーツ
古事記、日本書紀によりますと、神武天皇までの系譜は、
天照大神―天忍穂耳命―瓊瓊杵尊―火遠理命―鵜草葺不合命―神武天皇
となっており、長い間この系図は日本人に信じられ、皇室は神様の子孫の家柄であると本気で信じられてきました。
ところが、斉木雲州氏をはじめとする大元出版の本で語られる神武天皇までの系図は下のようになります。
徐福(スサノオ)―五十猛命―天村雲命(神武天皇)
大元出版の本の記述は出雲王家の口伝による伝承に基づくもので、調べれば調べるほど歴史的整合性が高い記述です。これに対して記紀の記述は複数の王朝の王の名前を切り張りしているようなところがあり、記載された人物が実在しなかったわけではないものの、順番や親子関係はデタラメと言って良いくらいに改ざんされているようです。
私は以前から、「スサノオこそは日本の歴史の出発点なのではないか?」と考え続けてきました。というのは、スサノオは記紀に登場する神々の中でもとりわけ行跡が具体的で、また、人間臭いエピソードが多く、実在した可能性が高いと思われたからです。
大元出版の系図によりますと、神武天皇はスサノオの孫、ということになり、また、徐福とスサノオは同一人物、ということになります。
では、今度は、日本の皇室の歴史は徐福から始まっているのか?という疑問がわいてきます。それで今回は、その徐福について、改めて詳しく調べてみました。
徐福の日本渡来は記紀に記載されておらず、そのため現在までの日本では、徐福渡来は単なる伝説に過ぎないという考え方が一般的でした。今でもこの風潮にさして変わりはないのですが、徐福が日本に渡来していることは間違いありません。しかもそれは、徐福は皇室の始祖として渡来した人物であったかもしれない、という超重要な事件だったのです。
徐福の渡来は司馬遷の「史記」に明記されています。渡来時期はBC219年とBC209年。司馬遷の生年はBC145年(異説あり)と近く、徐福に関しては間違いが起こりにくく、情報を集めやすい時期に司馬遷は生まれています。
このことだけでも徐福の実在と日本渡来は信ずるに値するのですが、それに加えて、近年、江蘇省連雲港市の近郊に「徐福村」が存在することが確認され、徐福直系の子孫が現在もそこで生活していることも確認されました。
徐福の家柄は非常に古く、なおかつ、たいへんな名門です。その発祥は夏や殷よりも前の三皇五帝時代の顓頊(せんぎょく)という人物まで遡ります。
顓頊は五帝の一人である黄帝の孫と言われ、高陽(現在の河北省高陽県)に国を建てたと「史記」に書かれています。また、驚くべきことに、この顓頊という王は神霊の加護を受けて五行の気を治めて人民を教え導いた、とも書かれています。
さらに、「山海経」という書物には、顓頊は一度死んだのちに再び蘇生する神であるとか、悪神が降りてこれないように天と地を引き離したという記述があります。
・・・私の投稿をずっと読んでいただいている方にはもうピンときたと思われるのですが、この顓頊という伝説の王の時代から、すでに「生命蘇生の法」が行われてきた可能性があるのです。
そして、この顓頊という人物、徐福の先祖であるにとどまらず、戦国時代の楚国の王家の祖でもあり、そして、なんと日本人のルーツでもあるようなのです!・・・。
古代中国の楚という国、そして殷という王朝は、どうやら古代日本と同一の民族が建てた国だったようです。このことは長い説明を要しますので今回は省きますが、いずれまたこのことに触れなければならなくなることでしょう・・・。
・・・顓頊の六世孫に夏の禹王がいます。禹は治水事業を行って民衆を洪水から守った名君として誉れ高き王ですが、このとき側近として禹の治水事業を助けたのが伯益という人物で、この人は禹の親族であったようです。
伯益は堯、舜、禹という伝説の名君たちに伝え、特に禹の時代には片腕として手腕を振るい、禹の臨終にあたっては王位の継承を求められるほどの名臣だったのですが、禹に嫡子がいたために固辞して、自ら徐国(現在の江蘇省北部と安徽省東北部)の王として赴いたようです(史書により多少の違いあり)。
このとき、伯益は「嬴」という姓を禹王から授かっています。また、この一族は鳥の紋章を使用していたようで、この二点ものちのち、日本の歴史とつながって来ます。
が、伯益が徐国の王となったのち、その子孫は代々、徐姓を名乗るようになります。
その後、三十数代を経て、偃王という王の時代、徐国はいったん周王朝に滅ぼされますが、周の武王は偃王の子孫に江蘇省泗洪一帯に領地を与え、徐国王として改めて封じました。BC1050年頃のことです。
そして、この地にあの太公望呂尚がやってきます。呂尚は斉という国を建国し、名君として君臨するのですが、この呂尚もまた、夏の禹王の治水事業を補佐した重臣の家柄の出身とされ、のちの「封神演義」の主役の道士として三百六十五人の神を封じた、とされています。
蛇足ながら、この山東省付近の地は「徐州」として、徐家の名を後世まで残すのですが、三国時代にはこの地から、あの諸葛孔明が生まれています。
そのほかにも、斉の時代にはこの地から墨子、老子、荘子、孟子、韓非子といったそうそうたる諸子百家たちが輩出しており、どうやらこの地は地球上においても稀有な「天才発生地域」だったようなのです。(この稿続く)。
・参考文献
「徐福ロマン」羽田武栄著 亜紀書房 1993年
「徐福伝説の謎」三谷茉沙栄著 三一書房 1992年

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