スサノオの足跡⑱ スサノオという名前の源流(佐藤達矢 稿)

佐藤達矢稿

スサノオの足跡⑱ スサノオという名前の源流

日本古代史上の神々の中でもスサノオという神様は特異な神様です。

イザナギ、イザナミという創造神から生まれた三貴神はアマテラス、ツクヨミ、スサノオですが、太陽神の擬人化と思われるアマテラス、月神の擬人化と思われるツクヨミに対して、スサノオは特に何の擬人化、何の象徴ともいえず、最初からスサノオと呼ばれています。

このことだけでもスサノオという人物が実在していたのではないかという論拠になるのですが、実はこのスサノオという名前、相当に古く、しかも日本から遠く離れた異郷の地にその発端を求めることができるのです。

現在のイラン、古代にメソポタミア文明が勃興した地に「Susa」という名前の町がありました。これが「スサの王」がいた町だと仮定すると、この町の歴史は実にBC4000年にもさかのぼります。

この国はBC647年、その名も「スーサの戦い」において攻撃を受け、BC540年にアケメネス朝ペルシアに滅ぼされます。このとき国外に逃亡したスーサの王族たちの末裔がはるばる日本まで来て、「スサの王」と名乗ったのかもしれません。

この事件に歩調を合わせるかのように、「契丹古伝」という古文書に「スサダミコ」という王の記述が現れます。それによりますと、「スサダミコはBC660年に東大国という国の王として即位、朝鮮半島の迎日湾付近に中京を定めた」とあります。

次にスサノオらしき人物が現れるのは中国の春秋戦国時代、BC300年頃。現代中国の南半分にあたる地を領有していた楚の国に「干将」という人物が現れ、雌雄二振りの件を製造し、それを松の生えた石の下に隠した、という記述が「捜神記」という書物に書かれています。この中の雄の剣がスサノオゆかりの剣である「布都斯御魂」の源流であり、雌の剣は高倉下が神武天皇を蘇生させるのに使ったと記紀に書かれている「布都御魂」ではないかと思われます。

これらの剣が奉納されているのが「石上神宮」であることも、この逸話との関連を感じさせます。

干将は越の国の出身と伝えられており、越は現在の中国の浙江省あたりにあった国であることから、この頃すでにスサノオは日本にほど近い地域まで来ていたとも考えられるのです。

次にスサノオとおぼしき人物が登場するのはBC221年に中国を統一した秦の時代。

始皇帝の寵臣であった徐福が日本に向けて不老不死の仙薬を探しに出奔したという記述が「史記」に見られますが、実はこの徐福こそがスサノオであると、斉木雲州氏をはじめとする大元出版の出版物の著者たちが主張しています。

徐福という人物は秦の生まれではなく、秦に滅ぼされた「斉」という国の重臣でした。

この斉という国は現在の山東省あたりにあったのですが、漢民族の国ではなく、西方から来た異民族の建てた国家だったようです。

また、この地域からは甕棺墓が多数出土しています。これは福岡県にあった奴国という国の墓制と一致するもので、斉国の時代にも倭人たちが多く居住していたことがうかがわれます。徐福は斉の時代から倭人たちと親交があり、彼らを頼って始皇帝のもとから逃れたのかもしれません。

大元出版の本によりますと、徐福の子孫は日本の歴代天皇家の先祖の一部ともなっており、その系図の説明は驚くほど具体的で精緻なもので、とても創作とは考えられないレベルに達しています。

さらに、このサイトではおなじみの山田勝氏のFB投稿によりますと、AD200年前後、中国の三国志の時代、官渡の戦いで曹操と戦ったことで有名な袁紹の一族の中に「袁買」という人物がいて、この人物は別名を「須佐能袁(スサノオ)」といい、記紀に登場するスサノオのことだと書かれています。なお、この人物は童女に扮して宮殿を脱出、倭で亡くなったそうです。

そして、この袁買、袁紹らが本拠地とした場所が、徐福の出た斉の国の跡地なのです。

袁紹一族は一時、中国を代表する豪族でしたが、最終的には曹操に敗れていますので、その末裔は日本へ逃げたのかもしれません。地理的にも日本に近く、日本へ移動しやすいのが徐福や袁紹の一族が本拠地としていた場所でした。

これより後、スサノオは日本の古志古伝と呼ばれる古文書に頻繁に登場するようになります。

記紀によりますとスサノオはまず、高天原という場所でアマテラスと悶着を起こします。この時のスサノオの乱暴狼藉ぶりとわがままぶりはすさまじく、とても神様とは思えないようなひどい書かれ方で、私はこのあたりにも逆に、スサノオが実在した人間であったからこそそう書かれたのではないかということを感じずにはおれません。

高天原がどこにあったのか?という問題に対しては諸説ありますが、私は朝鮮半島南部の伽耶山、大伽耶国のあったあたりがその場所ではなかったかと考えています。そして、その伽耶山に隣接する東側の土地が、スサノオがいたと思われる「伊西国」でした。

そして、有名な「八岐大蛇退治」のエピソードとともに、スサノオは日本にやってきます。

スサノオは出雲の国の簸の川のほとりに上陸し、出雲王の依頼にこたえて八岐大蛇を退治して、王の娘・櫛稲田姫を娶り、後継王として君臨するのですが、これにはいくつかの異伝があり、日本書紀の中だけでも「一書に曰く」として、スサノオが渡来した場所を「安芸の国の江の川のほとり」としていたり、さらには「新羅のソシモリ」という場所から出雲国に到ったという説も併記されており、どれが真実の史実なのか判然としません。

が、「新羅のソシモリ」という異説こそは極めて重要であり、おおむね朝鮮半島との関係を隠している記紀が、この部分だけは「新羅」という国名をはっきりと書いていることは注目に値します。

ほかにも、スサノオは日本古代史上において「真の主人公」といって良いほど様々な場面に登場します。たとえば、ウエツフミのような謎の書物にさえもスサノオは最初から登場しますし、竹内文書に到っては、スサノオはBC7百数十年頃、檀君朝鮮に天下ったと書かれているようです。

こう考えてくると、文献によっていろいろと差異はあるものの、スサノオはおおむね大陸を西から東へと移動しており、最後には日本にたどり着いているということでは一致しています。

その活動期間はあまりにも長いので、スサノオとは個人名ではなく、一族の族称、もしくは族長の職名であったであろうと思われます。

はるか西域の王であったスサノオが戦いに敗れ、放浪しながらもさまざまな国の王となり、各地に伝説を残しながら日本にまで来た、と考えればすべて整合するでしょうか?

(なお、今回はこれまで皆様からいただきました情報をもとに、私の手持ちの情報と合わせてまとめてみたものです。スサノオに関する逸話は上記以外にも多く存在すると思われますので、重要な逸話が漏れているとしたら、ご指摘いただければ幸いです)。

写真はスーサのアパダーナの丘から見た王都の遺丘(テペ、左側)とアクロポリス (右側)(ウイキペディアより借用しました)。

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