スサノオの足跡⑨ 八岐大蛇の頭はなぜ八つだったのか?(佐藤達矢 稿)

佐藤達矢稿

スサノオの足跡⑨ 八岐大蛇の頭はなぜ八つだったのか?
以前、スサノオの八岐大蛇退治について触れたとき、「八岐であれば首は九つあったのではないか?」と書いたところ、「古事記には八頭とはっきり書いてある」という指摘を受けました。
たしかにそうなのですが、ここは古事記特有の表現で、実際にはこの八岐大蛇の首は九つあったのではないかと私は考えています。
その理由を書くとかなり長くなってしまうのですが・・・。
まず、この八岐大蛇の物語は世界中にある複数の頭を持つ龍の伝承から型紙を借りていると思われます。
複数の頭を持つ龍について、古事記編纂時にどのような伝承が集められていたかと言いますと、
①新約聖書黙示録に「七つの頭と十本の角のある竜」の記述がある。
②ギリシャ神話にヒドラという龍の記述があり、九つの頭を持つ。
③インドに蛇神ナーガがあり、五~八の頭を持つ。
④中国に八大龍王があり、仏教の守護神とされる(八頭ではなく八体ある)。・・・などなど。
古事記が編纂された時代以前の古墳からペルシャやローマ製と思われるガラス器などが発掘されていますので、古事記の時代には交易商人などを通じて世界各国の伝承話が日本に伝えられていたと思われます。
この他、日本だけでも九頭龍、五頭龍など、様々な複頭龍の伝承がありますし、ほかにも複頭龍の伝説となるとシュメールやメソポタミア、東南アジアなど世界中に伝承が残されています。
古事記の作者はそのような伝承のいくつかを伝え聞いて知っていたに違いなく、その中から「八頭の龍」という意匠を選択したものと思われます。
それはなぜか? これにはいくつかの理由がありますが、最大の理由は「八という文字が吉祥数だから」です。
古来、中東のカバラや中国の易経などで、数字というものはそれ自体が重要な意味を持つと考えられてきました。ことに日本や中国においては「八」は大吉祥数で、それ自体がたいへんおめでたい意味があり、子孫繁栄や商売の末広がりを象徴するものとして、現在でも大切にされています。
スサノオの大蛇退治においては「八つの頭を斬り落とした」ということの数字上の意味が非常に大切で、これはスサノオが日本に繁栄をもたらす礎を作ったことを暗示しています。
ちなみに、「九」は大凶数とされ、非常に忌み嫌われます。世俗的な「苦に通じる」という意味だけでなく、この数字の放つ霊的波動が破滅を誘導すると考えられたのです。
また、「八」という数字には「非常に多い」という意味があります。
古事記という書物は詩文として読んでも非常に優れたものがあり、文章がリズミカルで美しい響きがあり、また、随所に文学の修辞法が使われています。
「八岐」という言葉には八つの頭という意味のほか、「多くの頭」「多くの分かれ道」八つの枝分かれした場所」等の意味があり、この言葉を使うことで「八岐大蛇」という言葉には様々な解釈が生じ、それが現在までの論争の火種にもなっているのですが、これは古事記の作者が意図的に数種類の解釈が可能な言葉を選んだ結果であり、この言葉が使われたゆえにスサノオの大蛇退治はその作品世界を大きく広げているわけです。
これは詩作の上では「Double Meaning」と呼ばれ、ノーベル賞を受賞したボブ・ディラン等が得意とする手法です。複数の解釈が可能な言葉を使うことで作品解釈の幅や奥行きを広げ、複雑で深遠な詩的世界を作り出す技法です。
大元出版の本の中には、「古事記の真の作者は太安万侶ではなくて柿本人麻呂である」という指摘がありますが、もしそうだったとしたら、古事記が詩的修辞法を縦横に駆使して美しく描かれていることにも納得が行きます。人麻呂は「歌聖」とまで言われた天才的歌人でしたから・・・。
ちなみに人麻呂の生存年代は660~724年。古事記の成立は712年です。
そして、もし、人麻呂が詩文としての美しさを優先して大蛇の頭を「八岐」としたのであれば、実際の伝承では頭の数が違っていたのではないか?という疑念が生じるのです。
特に私が、実際の史実として可能性が高いと考えるのは、「八岐大蛇は実際には九頭龍だったのではないか?」ということです。
九頭龍伝説は長野県や千葉県などに残されており、長野県の戸隠神社等に祀られています。そのルーツを辿ると朝鮮半島を経由して中国方面から伝えられたもののようで、伝承地を見ますと、どうやら出雲方面から渡来人に迫害されて逃げのびた人々の信仰する神だったのではないかという印象を受けます。
再び大元出版の本によりますと、スサノオは出雲渡来時に先住民族に藁の蛇を祀る習慣があるのを嫌って、彼らの神棚に供えてあった藁蛇の像を斬りまくって破壊するという暴行を働き、このときの記憶が八岐大蛇退治として伝えられた、と書かれています。
このことから考えますと、出雲地方に武御雷命やスサノオが渡来した時、やはり先住民との間に戦争が起こっており、先住民の武御名方命は信州の諏訪に逃げ、「八岐大蛇」と呼ばれた一族は同じ信州の戸隠地方に逃げたのではないか、と推測されます。
一見、華麗なる英雄譚として書かれている八岐大蛇退治ですが、こういうストーリーこそ、裏に血なまぐさい史実が隠されているものなのです・・・。
ところで、「八岐大蛇」という単語は「八大竜王」に通じるものがあり、これは仏教の守護神として尊崇されています。「九頭龍」もまた仏教神としての性格も備えていて、この両者はルーツを一つにするものなのではないかと私は考えています。
複頭龍の意匠の源流はインドの「ナーガ神」信仰にあると思われ、お釈迦様の活躍されたインド東北地域で信仰されていたことから、いつしか仏教の守護神とされるようになったものと思われます。
ところで、ナーガというのは雄の龍で、雌の龍はナーギと呼ばれます。
古事記の世界を読み進めるとき、これに似た響きの名前に良く出会います。
たとえば、イザナギ、渚武(ナギサタケ)ウガヤフキアエズノミコト、草薙剣、・・・。
出雲の銅鐸の古名はサナギ。
いっぽう、スサノオが八岐大蛇を斬って助けた人々の名は手長椎・足長椎。
神武天皇が畿内で戦った相手の名がナガスネヒコ。
ナーガ対ナーギの戦いがそこに示唆されているように思えるのは、私だけでしょうか?・・・。

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