スサノオの足跡⑧ スサノオ=徐福説を追う(佐藤達矢 稿)

佐藤達矢稿

スサノオの足跡⑧ スサノオ=徐福説を追う
スサノオについての投稿を初めて以来、「スサノオは徐福のことではないか?」というご意見を複数いただきました。・・・それで調べてみますと、なるほど、スサノオ=徐福とするだけの、かなり具体的な根拠があるようです。
徐福と言えば秦の始皇帝の命を受けて、不老不死の薬を求めて三千人の男女とともに日本にやってきた人物として「史記」に記載されている人物ですが、不思議なことに古事記・日本書紀には徐福のことは一切書かれていません。
そのため、徐福は実際には日本に来ていない、という説が一般的なのですが、徐福に関する伝説は日本中に残っており、いくつかの古文書にも徐福の渡来が書かれています。
中でも、最近相次いで大元出版から発刊されているいくつかの本には、徐福渡来にまつわる逸話が驚くほど具体的に、かつ詳細を極める内容で記されています。
大元出版の本は古代出雲王国にまつわる伝承を集めたもので、客観的かつ論理整合性の高い歴史的事実が膨大な量でまとめられており、古代史ファンなら一度は読んでおくべきものと言えるでしょう。
その中の一冊、「出雲王国とヤマト政権(富士林雅樹著)」によりますと、徐福の日本渡来は3回行われ、第一回目は山口県下関市豊北町の土井ヶ浜遺跡付近に上陸したとされています。この上陸地は富士林氏の推定のようですが、この地から山東人骨と呼ばれる当時の中国人らしき集団の骨が発掘されていたり、中国由来の陶塤(とうけん:土笛)等も多く出土しているのでこの地が上陸比定地となったようです。
このときは出雲王国と戦争になり、徐福は中国へ逃げ帰ったようですが、BC219年頃、今度は出雲王国の沖合に徐福の先遣隊が現れ、出雲王に献上品を捧げて上陸交渉を行ったようです。この時の献上品は編鐘(へんしょう)と呼ばれる青銅製の打楽器で、のちにこれが銅鐸へと進化したということです。
その翌年、徐福の率いる大船団が現れ、島根県太田市の五十猛(イソタケ)の磯に上陸したということです。
さあ、ここで徐福とスサノオの関連が出てきました。記紀によりますと五十猛命はスサノオの息子という設定になっているのです。これが出雲の伝承では徐福の息子となっており、スサノオ=徐福説の一つの根拠となります。
また、徐福の集団が居住した地域とされる出雲市の斐伊川河口地帯は、スサノオの八岐大蛇退治の舞台となったところでもあります。ここでもスサノオと徐福の影がだぶります。
徐福は出雲王の娘・高照姫と結婚し、王族となります。この点もまた、出雲王・手名椎の娘・櫛稲田姫と結婚したスサノオの行跡とそっくりです。
しかし、その後がいけません。徐福はこともあろうに、義理の父となった出雲王の暗殺をたくらみ、ヤチホコとコトシロヌシという出雲国の王と副王を二人とも殺してしまいました。このことが露見して命を狙われることになった徐福は中国に逃げ帰ります。
このときの徐福の悪行が、記紀においてはスサノオの横暴な振る舞いとして記されたということです。
徐福の名前を記載せず、スサノオと変えて記載した理由は、出雲人が徐福の悪事を思い出さないようにするため、ということです。出雲国造家の果安という人物が、記紀の編纂者のひとりであった忌部子人という人物に頼んだということまで書かれています。
その後徐福はBC210年頃に三回目の渡来をし、北九州の吉野ヶ里遺跡付近に住んだらしいのですが、このあたりからはスサノオとの関連が薄れますので、本稿では省略します。
徐福は出雲ではホアカリ、北九州ではニギハヤヒと名乗ったとも書かれています。この二つの名前は非常に重要で、ホアカリは天孫ニニギの兄として、ニギハヤヒは神武天皇の親族として記紀に登場する名前であり、これらがすべて同一人物だったとすると、徐福の血筋はヤマト王権の内部にしっかり残されたことになります。そして、その事実を記紀が隠匿しているということも・・・。
もうひとつ、徐福とスサノオをつなぐ説をご紹介しましょう。
戸矢学著「スサノヲの正体 / 河出書房新社」によりますと、スサノオの剣として石上神宮に保管されている神剣「布都斯御魂」は別名「韴霊剣」と呼ばれ、徐福の本名として伝わる「徐市(ジョフツ)」という名前も、実は「市」ではなく上の部分が突き抜けていない異字であり、「韴霊剣」の韴という字の右半分が正しい字であり、これは徐福の霊が宿る剣だということを物語っている、というものです。
・・・さて、ここまで来ると徐福=スサノオ説が一層の信憑性を持って迫ってくるのですが、これまで見てきた通り、スサノオのルーツは朝鮮半島の伊西国にあり、その前は高句麗、さらにその前は中国南部の江西省、と辿って行くことができます。
これは徐福の渡来ルートとは異なるものであり、徐福=スサノオと完全一致させてしまうと矛盾が生じます。
・・・これを解くカギは、記紀における「切り張り手法」にあるのではないかと、私は考えます。
スサノオというのは個人の名称ではなく、スサノオ族という民族の名称を呼んだものであり、その族長をスサノオと呼んだ。だから歴史上スサノオは何人もいて、記紀に書かれたスサノオのエピソードは一人の人物の行動を追いかけたものではなく、多くの人物の行跡があたかも一人の行動のように記されている。・・・これはアマテラスやツクヨミ、あるいは神武天皇といった人物の描写にも当てはまることで、数人のエピソードを一人としてまとめているので、スサノオにおいてはイコール徐福であるときと、徐福ではない人物であるときがある。
・・・ということが真実なのではないか?と私は考えています。
記紀が編纂された目的の一つは、日本が中国に対して独立した国であることを主張することでした。日本という国はその開闢の時から、中国とは別個の王統を延々と維持してきた国であるということを主張し、中国の政治介入をはねつける必要があったのです。
そのため、徐福という人物は記紀から抹消されたと考えられます。中国出身の人物の血がヤマト王権の中にあってはまずいのです。
同じ理由で、卑弥呼もまた記紀の記述から外されたものと思われます。卑弥呼は中国に対して朝貢していますので、この朝貢の事実は歴史から抹消する必要がありました。
さらに、三千年前の周王朝の後継者候補でありながら日本に逃れてきた太白、呉越戦争に敗れて九州に逃れてきた呉王夫差の子孫などのことも記紀は記しておりません。念には念を入れて、中国から人は来ていない、という歴史が編まれたのです。
また、記紀に富士山に関する記述がないのも、晩年そこに行った徐福の記憶を思い出させないため、という配慮からのことだったのかもしれません。

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