スサノオの足跡③ 伊西国と伊勢神宮(佐藤達矢 稿)

佐藤達矢稿

スサノオの足跡③ 伊西国と伊勢神宮
アマテラス族が高天原・伽耶国、スサノオ族がそのすぐ東側の伊西国に居住していたと仮定してみます。
伊西国はイソコクと読みます。この「イソ」という言葉が極めて重要で、イセと転訛した場合、伊勢神宮の名前と重なります。
ウイキペディアによりますと、・・・伊西国(AD37~297年。韓国、慶尚南道清道郡伊西面にあった国。新羅国と抗争関係にあり、三国遺事では伊西国、三国史記では伊西古国として297年まで存在したとされる。イザナギの出身地という説もある。)
これに加えて、実は、名前が似ているだけではなく、伊西国は伊勢神宮の大元の元宮があった場所ではないかとする推理が成り立つのです。
スサノオが追放されてやってきた場所が出雲国。正確には出雲連邦都市国家の中でも東寄りの、現在の鳥取市付近にあった八上王国にスサノオ族は上陸したようです。
そこから東に100km余りの京都府宮津市に、元伊勢と言われる籠神社があります。
そこから京丹後市の竹野神社、福知山市の皇大神社と元伊勢は南下して行き、滋賀県、岡山県、奈良県などでかなり増殖し、やがて三重県伊勢市に入って収束を見ます。
この元伊勢と呼ばれる神社の分布がスサノオ族の移動の足跡を示しているのではないか? と私には思われるのです。
・・・それで、もう少しスサノオと「イソ」の関係を洗い出してみますと、
①スサノオの息子のひとりとされる人物の名前が五十猛(イソタケル)命。
②この頃の日本列島と朝鮮半島の間の海運を取り仕切っていた海人族の首長の名前が「安曇磯良(イソラ)」。
③この頃、九州の糸島市にあった都市国家が「伊都(イト)国」。
これらの名前が伊西(イソ)国との繋がりを示しているとしたら、伊西国は当時、日本列島の各地と非常に密接な関係を持っていたと思われます。
例えば、五十猛命は伊西国の将軍だったのではないか? なぜなら猛(タケル)という文字は当時の軍事長官を指す言葉だから。
安曇磯良もまた、伊西国に縁のある人物だったのではないか?たとえば両親のどちらかが伊西国の出身だったので名前にイソがついている・・・。
伊都国もまた、伊西国と浅からぬ縁を持った国ではなかったか? あるいは伊西国の人々が渡来してきて作った国なので伊都国と言うのではないか?・・・。
などなど、この推理を証明するのはまず不可能でしょうが、可能性としては大いにあり得るのではないかと思われます。
では、この当時の半島情勢を推察してみましょう。
三国遺事や三国史記によりますと、伊西国の誕生がAD37年。これは金官伽耶国の建国より4~5年ほど早い時期になります。
そして、「新羅本紀」には、新羅王儒理尼師今がAD42年に伊西国を討滅、という記述があります。
AD42年と言いますと、ほぼ金官伽耶国が建国されたのと同時期となります。
(金官伽耶国建国の時期はAD41年説と42年説がある)。
金官伽耶国建国の時期は、初代首露王の生誕年となっていますので、この時期はまだ王国の体裁を整えていなかったでしょう。首露王の王妃・許黄玉が金官伽耶国に嫁いでくるのがAD48年ですから金官伽耶国が国としてまとまるのはそれ以降と考えられます。
AD42年のこの時、なにが起こったのか?・・・。
当時、この地域の最強国家は伽耶山の麓(現在の高霊市)にあった大伽耶国です。
伊西国は大伽耶国と西側がほぼ隣接しており、新羅国とは東側が隣接しておりました。
新羅に敗れた伊西国の軍勢が金海方面に逃げ、大伽耶国と連携して金官伽耶国を建てた。あるいは伊西国の人々が日本に向かって逃げたと考えますと、伊西国の将軍であったスサノオが出雲に上陸したのはこの頃か、とも思われます。
おそらく彼らは民族の至宝である神器を持って逃げたことでしょう。
それがまず籠神社に祀られ、各地にある元伊勢の神社を経て、最終的に伊勢の地に鎮座した。
伊勢まで行ったのは、山陰地方にいたのではいつまた敵が来襲してくるかわからなかったので太平洋側まで逃げる必要があったのでしょう。
そして、伊勢の地は太陽信仰族にとって、朝日を拝むための絶好のポイントで、海から昇る朝日を一望することができ、祭祀を行うためには最高の場所でした。
・・・ところで、皆様は伊勢神宮に行かれたとき、最後は本殿を拝むことさえできず、固く閉ざされた門の外から拝礼するしかなかったことに驚かれたことはないでしょうか?
日本一の格式を持つ神宮でありながら、本殿を見て参拝することすらできない、おそらくは日本で唯一の神宮が伊勢神宮です。
伊勢神宮の御祭神は天照大御神。それに付き添うようにして外宮の豊受大神宮があり、まず外宮の豊受大神に参拝してから内宮の皇大神宮にお参りするのが作法とされています。
・・・これが月読族とアマテラス族(天孫族)を祀ってあるものとしたらどうでしょう?
この二部族を祀るとしたら、祀ったのはスサノオ族以外に考えられません。
記紀に描かれたスサノオ族とアマテラス族との騒動、結婚、ウケヒを経て、スサノオの日本渡来に至る一連の出来事が、大伽耶国と伊西国との間で起こったなにかしらの事件を表していて、伊勢神宮の御祭神の祀り方にも影響を及ぼしているのだとしたら・・・。
伊西国こそは伊勢神宮、ひいては日本という国の発祥の地だったのかもしれません。

(写真はtps://twitter.com/yayoibot8/status/1255358336045928449
よりお借りしました。)

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