スサノオの正体⑭ 移住民族故郷再生の法則(佐藤達矢 稿)

佐藤達矢稿

スサノオの正体⑭ 移住民族故郷再生の法則

先日まで八岐大蛇について書いてまいりましたが、多くの方々からご意見をいただいた中で、「スサノオの八岐大蛇退治の舞台は阿波ではないのか?」という指摘を複数の方々からいただきました。これは私にはかなり意外だったのですが、他にも福岡や出雲、新潟方面というご意見もあり、見解は何通りにも分かれるようです。

ここでもう一度記紀の記述を確認しますと、古事記ではスサノオの降り立った土地を「降出雲國肥川上・名鳥髪地」八岐大蛇は「高志之八俣遠呂智」と記述しています。

一方、日本書紀ではスサノオの降り立った土地は「降到於出雲國簸之川上」と記述されており、これは古事記と同一です。そして八岐大蛇はそこで退治されたような文章の流れになっているのですが、日本書紀特有の「一書に曰く」というただし書きでいくつかの異伝が書かれており、その中にはスサノオが「安芸の江の川のほとり」に下って、そこで八岐大蛇を退治したのちに「出雲國の簸の川のほとり」に移した、という記述があります。

どちらにしろ、記紀を素直に読み進めるなら八岐大蛇退治の舞台は出雲国と考えるのが最も妥当と思われるのですが、徳島県や福岡県、新潟県にもそれと似つかわしい地名があり、ある程度、記紀の記述の内容と一致します。

私自身、熊本県で「古志」という地名を見つけ、その地にはスサノオを祀る神社やスサノオゆかりの史跡も多く見られたことから、「熊本の古志こそ八岐大蛇退治の舞台だったのではないか?」と考えたことがありました。

皆様も、記紀の記述と合致する土地が複数見つかり、どちらが正しい土地なのか?ということで頭が混乱した経験をお持ちの方が多いのではないでしょうか?

古代史では、複数の地名が重複して出てくるという現象がよく起こります。たとえば天孫ニニギの御陵と推定される場所は少なくとも五か所くらいありますし、斉明天皇陵や継体天皇陵も複数存在します。

その他、福岡県と奈良県、大分県と兵庫県北部で同様の地名が数十か所、それも位置がきちんとそろった状態で重複しているような、不思議な現象もみられます。

私はこの、同じ地名が違う場所で重複して見られる現象を、民族が移住して違う場所に移り住んだ場所に故郷と同じ地名をつけて、故郷の町を再生しようとしたものととらえ、「移住民族故郷再生の法則」と名付けています。

この典型的な例が、福岡県糸島市にある「可也山」です。これは南朝鮮中心部にあった「伽耶山」の名前からとられたものに違いなく、大伽耶国の聖山であった伽耶山を信仰していた民族が糸島に移り住んだのち、伽耶山信仰を続けるために、故郷の方角にそびえていた山を「カヤサン」と呼んで祈りを捧げたため、それが山の名前となって定着したものと思われます。

同じ名前の神社が全国で見られるのも同様の理由で、移住した人が故郷で信仰していた神様への祈祷を継続するため、故郷から御神霊を勧請し、分祀して新たな神社を作ったため、子孫が行く先々で神社も同様に繁殖して行ったわけです。

信仰の対象は山でもあり、前述の伽耶山以外にも、「くしふるの峰」という名前の山は全国にたくさん見られますが、もともとは金官伽耶国の中央部にあった山の呼び名であったものが糸島市東方の朝日の昇り始める峰の名称となり、それが高千穂の「くしふる峰」に移り、さらに奈良県の橿原市や大阪の柏原という地名のもととなったようです。

外国でも、英国から米国に移住した人々が「ニュージャージー」とか「ニューヨーク」という故郷の町にちなんだ名前を付けることは珍しくなく、これは人間の持つ望郷の念というものがなせる本能のようなものなのかもしれません。

この「移住民族故郷再生の法則」から考えますに、阿波の国には出雲国から移住した人々が八岐大蛇伝説まで一緒に持って行き、スサノオゆかりの地を再現したものと思われます。
この地から銅鐸が出土されるのも、出雲人が移住した証拠と言えるでしょう。

スサノオは朝鮮半島から渡来したと思われ、かりにスサノオ=徐福説をとっても中国から渡来したことになりますので、そのような場所から阿波という場所に行くのは不自然です。

阿波国というのは地政学的に見ますと、大陸の民族との抗争を避けるために日本の先住民族が非難した場所と思われます。出雲国や伊都国などの大陸に近い場所にある国は絶えず侵略戦争の危険にさらされていたため、一族の全滅を避けるために安全な場所に一部を非難させたのでしょう。阿波国の名前はもともと粟国であったものが阿波となり、房総半島に移住するに及んで安房となりました。そこには「安全な家」という願いが込められているように思えます。

もうひとつ重大なこととして、記紀が作られた後の時代に、記紀を元本として様々な神社や廟、地名などが後付けで作られているケースが多いことです。

「ここにこういう地名があり、記紀に登場する地名だから、この場所が記紀に描かれた舞台であったに違いない」と思いがちなのですが、実は記紀のほうが古く、記紀を読んだ人が記紀にあやかってその地名をつけた、というケースが多々あることです。

前述のニニギ陵が何か所も存在することはその典型ですが、八岐大蛇退治の舞台も全国に少なくとも5か所くらいは比定地が存在します。正しい場所はひとつしか存在しないはずですので、残りはすべて後世の人が作り上げたレプリカと言えます。

神社の由緒書などもたいてい欽明朝くらいから始まっていることが多く、そのあたりからようやく神社の歴史が綴られるのですが、アマテラスやスサノオの時代はそれよりずっと古く、由緒書を書いた人も伝承に頼るしかなかったことが推察されます。そのため、古代に創建された神社には当初祀られていた神様が途中から入れ替わっている場合も多く見られますし、神社そのものが記紀の記述をもとに創建されたと思われるものもあります。

たとえば、神武東征時に神武天皇が立ち寄られたとされる安芸の埃宮、吉備の高島宮の跡地とされる場所には今でも神社が建っていますが、これは後付けの施設でしょう。神武帝は宇佐公康氏の本では宮島で亡くなったことになっておりますし、大元出版の本では存在しなかったとされています。記紀の内容に信憑性をもたせるため、後から作られた遺跡というものもあるのです。

一方で「五瀬東征」というものは確実にあったようで、九州北部には五瀬命ゆかりの神社が多数存在しますし、和歌山県には矢傷を負って亡くなった五瀬命を祀る「竈山神社」が存在します。こちらは本物でしょう。

このように、神社でも正しい歴史を証明しているものと、ウソの歴史にウソの上塗りをしている神社もあるということです。われわれは正しいものとそうでないものを見分ける目を養いたいものです。
(図は以下のHPからお借りしました)。
http://kodaisihakasekawakatu.blog.jp/archives/16253781.html

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