蘇我氏の正体㊴ 堀哲也氏の解き明かす金首露王の正体。(佐藤達矢 稿)

佐藤達矢稿

蘇我氏の正体㊴ 堀哲也氏の解き明かす金首露王の正体。

金官伽耶国の初代王妃・許黄玉が釈迦族の女性であることは前編でご説明いたしました。
が、私にとって長年の謎だったのは、「それでは金首露王はどのような人であったのか?」ということでした。このお方は超重要人物でありながらそのルーツがわからず、情報も少ないので究明に苦労しておりましたところ、先日このサイトの主宰者であります堀哲也様が貴重な投稿をされ、金首露王の正体を具体的に、確固たる見識を持って提示してくださいましたので、今回はその内容を改めてご紹介しながら実態に迫って行きたいと思います。

堀氏によりますと、金首露という名前の「金」の文字には釈尊の教えを黄金に例えたという意味があると言います。そして、首露(シュロ)とは、サンスクリット語で「光り輝く」という意味があり、金首露という名前には「光り輝く偉大なる釈尊の教義」という意味に解釈できるのだそうです。だとしたら、これはそのまま、熱心な仏教徒につけられた名前に相違なく、金首露王は仏教徒であった、ということになります。

金首露王が仏教徒であったなら、釈迦族の娘であった許黄玉と結婚したのも自然な流れで、当時の漢帝国の迫害から逃れて、インドから遠い南朝鮮の地に仏教国家を建設しようとしたことが金官伽耶国という国の始まりだったということになります。

堀氏はさらに、金首露のルーツについて詳しく説明されていますので引用しますと、
『紀元前91年、前漢で巫蠱の乱が起きたときに武帝は匈奴の属国「亀茲国」の「宅候」に応援を求める。 宅候は巫蠱の乱での活躍に爵位を贈呈され、その際に黄金で作った神人を祀り、「金」姓を与えられたと記し、名を「金日智と改む』。

亀茲国というのは中国の西、中央アジアのシルクロード上の要地に存在したオアシス国家で、古くから仏教が興隆した国でした。この場所には今でも多くの石窟仏が残り、あの鳩摩羅什などの名僧もここで生まれています。

また、漢の武帝は強大な皇帝でしたが、彼が軍事力をもって強引に版図を広げて行く中で、このような小国の反乱が多々起こったものと思われます。
そして「巫蠱」というのは一種の呪術であり、宅候は木の人形を使って人を呪殺する等の呪術を使って漢に対抗していたようです。

私の推察ですが、宅候が「黄金で作られた神人」を祀り、金姓を与えられたということは、これは巫蠱の呪いの術の逆をやったということで、人形を神格化して祀ることで、その祈りの向けられた人物を神格化しようとする試みではなかったか?と思われます。

堀氏の解説はさらに続きます。
『金首露王の父祖・金融。 紀元前86年、金日智は武帝から山東省に領地を与えられ、その一族三万人を引き連れ移住、族長の王莽は「新」を建国、其処には王莽の従兄弟、金融が軍師としてその名が記され、江南で前漢に反旗を掲げた許氏も記される』。

・・・これは驚きの内容です。私たちは王莽を新という国の建国者として知ってはいますが、この人が亀茲国の王であった宅候(金日智)の親族であることや、この人の従兄弟・金融という人物が、なんと金首露王の父祖であったとは!・・・。

この説の中には「金」という名字の由来、漢帝国と周辺民族の対立、そしてその周辺民族の中で金首露王の先祖と許黄玉の先祖が結びついて行くさまがくっきりと明快に描かれています。

また、この物語は、強大な漢帝国に対抗して周辺の小国同士が同盟を結び、対抗できる勢力を作ろうとした作戦の軌跡でもあります。そしてまた、仏教という宗教がいかにして日本にもたらされたのかということを克明に説明してくれる資料でもあります。

ここで私が思い当たるのは、金日智が領土を与えられて移住した山東省という土地が、かつて徐福が宰相として活躍していた徐の国の領土だったことです。
徐福のいた時期は紀元前230年頃で、金日智がやってくる100年余り前です。
このくらいの時間差なら、当時の山東半島には徐福の逸話がたくさん残っていて、日本や南朝鮮に関する情報も豊富に得られたものと思われます。徐福は日本だけでなく、南朝鮮にも深く足を延ばしており、その地の地下資源などもすでに調べていた足跡があるのです。

また、徐福は甕棺という墓制を持ってきたとも考えられ、甕棺墓は九州北部、南朝鮮、そして山東半島に多く発掘されていることから、これらの地域は徐福以来、同じ種族が居住していたと考えられます。金首露王は、この「徐福ルート」を使って南朝鮮までやってきた、と考えられるのです。

堀氏はさらに続けます。
『しかし僅か15年後には後漢建国者「劉秀」後の光武帝に攻められ王莽は処刑となり金一族は散り散りとなる。僅か6歳の金首露を連れた一団は船団を組み、釜山まで南下、そこから内陸部へ』。
この部分も検証してみましょう。

王莽の時代の中国の通貨は南朝鮮や九州でもかなりの量が出土しており、この時代に王莽の関係者が来ていることを裏付けています。
金官伽耶国の建国は西暦41年、もしくは42年頃ですので、紀元前86年の記述がある金融は金首露王の父親ではなく、数代前の男系の先祖であるようです。

私見ながら、「金首露」という名前には、堀氏の指摘される仏教的な意味の他に、男性器を暗示するという、呪術的な意味も込められているようです。首露とは亀頭から出る精液のことであり、子孫繁栄を願って祈る儀式の意味合いがあったと思われるのです。

そして、首露王の結婚した相手は釈迦族の許黄玉。金首露王の使命はなによりも、この釈迦族の女性と婚姻して多くの子孫を作り、釈迦族の世を復興させることにあったに違いありません。

そして、実際にこの夫妻は11男2女という子宝に恵まれ、これらの子供たちは伊都国の王になったり、日本の有力な氏族の始祖になったりして、以降の日本の歴史に大きな影響を与えて行きます。
その物語は記紀において、高天原という神話のオブラートが被せられ、金首露王は高木神、許黄玉は天照大神という仮名でベールに覆われます(ただし、異説多数あり)。

しかし、この堀氏の仮説がもし真実であれば、日本という国には間違いなく釈迦族の末裔が渡来しており、その血筋にたがわぬ多大なる恩恵を日本にもたらしてくれたことは間違いありません。通説より数百年も早く、仏教は日本に伝来していたのです。

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