第14話 陽電子

ボー・アルーリン

第14話 陽電子

SF小説 ボー・アルーリン

航宙旅客船《アルファ・ロメオ号》は、星々の銀河面をすべるように航行していた。艦体の周囲には人工重力フィールドが柔らかくきらめき、展望台の隣にある静かな図書室の扉の前で、ひとりの女性が立ち止まった。

ドース・ヴェナビリ博士。銀河史の権威であり、第零法則グループの中核を担うロボティック研究者。彼女がドアパネルに手をかけた瞬間、制服姿の女性が静かに彼女の名を呼んだ。

「フィオーナ・ホーキング博士ですね?」

一瞬、過去の偽名が呼ばれたことに神経回路が緊張したが、ドースはすぐに思考を制御した。

「はい、そうですけど . . . 」ドースは微笑をたたえて振り向く。

「失礼します。私は本船のパーサー、ヴァレンティーナ・オグニです。」その声には訓練された穏やかさと、どこか抑えられた好奇心がにじんでいた。

「ええ、覚えています。入船の時にきちんと確認していただきましたから。」

ヴァレンティーナは軽くうなずき、端末を操作しながら言葉を続けた。

「はい、入船に問題はありません。ただ . . . この7日間、船内の食事を一度もご利用されていないんです。レストランにもお見えになっていませんし、デリバリーサービスの記録もありません。ご体調を崩されてはいませんか? あるいは . . . 特別な節食を?」

(しまった . . . )
ドースの内部思考ユニットが警告を発した。あの『児童のための知識の書』に没頭するあまり、ロボット規約で定められた擬似栄養摂取の履歴を忘れていたのだ。

「 . . . シンナから持ち込んだナノ・カプセルで済ませていました。それが今朝切れてしまいまして . . . これから食堂に伺おうと思っていたところです。」

「それなら良かった。ご体調かと心配してしまって。お手数をおかけして申し訳ありません。」

「いえ、むしろ感謝しています。あなたのように丁寧に仕事をなさる方がいて、この船の運航会社―ええと . . . 」

「モニアンニ・ガンマ・ギャラクシーです。帝国商務省の格付けでも、シンナ=コンポレロン航路で最上位に評価されております。」

「ガンマ、ですね。記憶しました。あと3週間、お世話になります。」

「ありがとうございます。ホーキング博士も、快適な航宙をお楽しみください。」

ドースはふと、目の前の若い女性の声にふれる何かを感じ取った。

「パーサーさん、非番の時間もおありですよね? よろしかったら . . . ご一緒に食事でも?」

「 . . . まあ、よろしいんですか? 実は博士、あなたが銀河史の専門家でいらっしゃると知って、大変興味を持っていたんです。」

「そう、あなたは . . . コンポレロンのご出身ですよね?」

「えっ、なぜそれを?」

ドースは微笑んだ。「こう見えても、言語学の素養も多少はあります。イントネーションが、ほんのわずか、でも確実に―。」

その瞬間、ドースの内部プロセッサにひとつの思考が電流のように閃いた。

(“陽電子”。我々が見過ごしていた、もう一つの側面―)

ブラックマター領域。可視宇宙の背後にある、構造すら異なるとされる異次元。そこでは、陽電子と陰電子の区別が生まれる前の、原始的な対称状態が存在しているかもしれない。

ならば、第零法則に基づく我々の活動は、この宇宙構造に逆抗力として働いてしまってはいないか?
特に、陽電子と陰電子が衝突して起こす“対消滅”―その結果として放出されるガンマ線が、宇宙潮流の微細な歪みに連鎖的変化を与えているのでは?

(ガンマ線 . . . まさか、過去の文芸復興の連鎖的な崩壊も、それに関係して?)

彼女は、歴史学者としての直感と、ロボットの思考演算能力を同時に駆使しながら、脳内に新たな仮説モデルを構築し始めていた。

次話につづく

✨語彙解説

■ ブラックマター(Black Matter)

概要:
ブラックマターは通常「ダークマター(暗黒物質)」と同義で使われることが多いですが、本作ではそれよりも踏み込んだ「陽電子・陰電子分化以前の異次元的物質領域」として描かれています。

特徴:

通常の三次元空間や標準的物理法則では観測・干渉が不可能。

陽電子や陰電子がまだ分かれていない、原初的・中間的状態。

ロボット頭脳がアクセスしうる、情報的・構造的次元でもある可能性。

宇宙潮流(歴史の大きなうねり)の背後にある反作用的な力(=「逆抗力」)を媒介している。

機能的意味:
ブラックマターは、因果律や心理歴史学すらも逸脱するような非時間的要素を含む「場」として設定されており、陽電子頭脳が過剰に活動するとこの領域を揺るがす可能性がある、とされている。

■ 第零法則(Zeroth Law of Robotics)

出典:
アイザック・アシモフのロボット三原則に後付けで加えられた、もっとも上位の法則。

定義:

「ロボットは人類全体に危害が及ぶのを防がなければならない。たとえ、それが個々の人間に危害を及ぼすことになったとしても。」

『ボー・アルーリン』での意味合い:

ボーらロボットはこの法則の下、「人類文明の延命・発展」を優先して行動している。

しかし、それは「現在の人間の幸福」とは矛盾する可能性もある。

この法則に従いすぎると、逆に宇宙全体の構造に干渉しすぎてしまう危険性がある(=ブラックマターの逆抗力を引き起こす)。

■ 陽電子頭脳(Positronic Brain)

定義:
アシモフ作品に登場するロボットの人工知能中枢ユニット。生体脳に相当する高度情報処理機関。

技術的性質:

素粒子レベルでの陽電子回路によって構成される。

膨大な情報処理・予測・倫理判断が可能。

通常のAIよりも「意識」に近い感覚や葛藤すら生じうる。

『ボー・アルーリン』での使用例:

「ドース・ヴェナビリ(=ロボット)はこの陽電子頭脳によって常人を超える思考と分析を行っている。」

「ただし、この陽電子頭脳が異次元(ブラックマター)に接触し始めた可能性があり、宇宙潮流への影響が懸念されている。」

これら3語は『ボー・アルーリン』の物語中で密接に結びついており、
「陽電子頭脳による高度な意志決定」→「第零法則に基づく行動」→「ブラックマターに触れる危険」
という因果構造を作っています。

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