蘇我氏の正体⑲ 中臣御食子と鎌足の実像。(佐藤達矢 稿)

佐藤達矢稿

蘇我氏の正体⑲ 中臣御食子と鎌足の実像。

皇極・斉明帝が、新羅の将軍・金庾信の妹・宝姫である、という仮説について、もうひとつ論拠を加えます。斉木雲州著「上宮太子と法隆寺/大元出版」によりますと、宝姫は朝鮮半島にルーツがある人物で、藤原鎌足の陰謀によって舒明天皇と結婚させられた人だと書かれています。
同著によりますと、宝姫は息長家の姫様で、最初は蘇我武蔵という人物に嫁ぎ、すでに子供までできていたのですが、中臣御食子(藤原鎌足の義父)が田村皇子(後の舒明天皇)をそそのかして、強引に蘇我武蔵と離縁させ、田村皇子の妻として再婚させた、ということです。
これは藤原(中臣)氏一族が天下取りの野望を行動に移した、最初の事件でした。

どうして御食子がこのような強引な手段に出たかといいますと、田村皇子が大王となるためには宝姫の実家である息長家のバックアップを得ることが不可欠と考えたからです。

息長家のルーツは新羅にあります。新羅王家の本流を受け継ぐ一族で、この一族から神功皇后が輩出するに及んで、息長家は新羅と日本にまたがる広大な領土を手中にしたとも言えます。事実、神功皇后は「三韓征伐」を行い、当時朝鮮半島にあったすべての国から日本に朝貢させることに成功し、それはこの蘇我氏の時代まで続いていました。
息長家はこの時代、大王の妃を出すようなことはなかったのですが、神功皇后以来の皇室の外戚として、ヤマト王権の中に隠然たる地位を保持していたのです。

また、息長家は新羅王家の流れですので、蘇我氏の時代の新羅王家の外戚でもありました。
つまり、宝姫は新羅王家の血を引く人物だった、ということになります。

私の仮説では、宝姫は息長家の子女ではなく金庾信の妹だったということになるのですが、蘇我氏がまず宝姫を息長家の養子としてもらい受け、それから蘇我武蔵と結婚させたとすれば話が整合します。蘇我武蔵は蘇我馬子(石川麻古)の孫にあたる有力者で、その名前からして関東方面の統括者として赴任していた人ではないかと思われます。釈迦族のしきたりを遵守する蘇我家では女系のほうが相続者として重要で、このような女性の貴種を探しては、縁組を繰り返していたのでした。

一方、田村皇子のほうは皇位継承を巡って苦しい立場にありました。ライバルに山背大兄王という強力な後継候補がいたからです。山背大兄王は聖徳太子の長男であり、文字通り後継者争いのトップの位置にいました。

当時、天皇の外戚はほとんど蘇我氏の関係者で固められていました。御食子は何と、大胆にもこの盤石な蘇我氏体制を切り崩しにかかったのです。そして、最終的に鎌足の時代に至ってはほんとうに蘇我氏勢力を王権から追い出すことに成功し、藤原氏の時代を作り上げたのでした。

このあたりの話の顛末は日本書紀において、藤原氏の都合の良いように、ほとんど原形を留めないまでに改ざんがなされています。そのため、書紀の記述を鵜呑みにして書かれた日本史の教科書の記述を覚えている人にとっては、これからお話しする事項は従来とはまったく違う話として聞こえ、すぐには信じられないという人も大勢おられると思います。これからの話は斉木雲州氏の説に沿って説明して行きますが、私は斉木氏の説のほうが日本書紀よりもはるかに信ぴょう性が高いと判断し、支持するものです。

田村皇子が宝姫を強奪したとき、大王の位に就いていたのは尾治大王という人物でした。
この人物は記紀に記載がありません。いわば幻の天皇ですが、田村王子は尾治大王が病で伏せていたときに見舞いし、余命が長くないのを見てとって、「自分が次の大王になる」と宣言します。
このときの王位継承順位の一位は山背大兄王。当然、大臣たちは納得しません。石川雄正(蘇我蝦夷)や境部摩理勢などが声を上げて反対しました。

中臣御食子はこの機を逃さず、魔理勢を誅殺します。理由は、天命に逆らった、というものでした。時の天子は病気で政治に参加できていないときのことでした。
628年、尾治大王は没し、田村皇子が王位に就きます。これが舒明天皇です。

そして641年、石川雄正(蘇我蝦夷)の豊浦の邸宅を葛城皇子と中臣鎌子(鎌足とは別人)ひきいる軍勢が襲い、誅殺します。日本書紀に書かれた内容とは真逆で、鎌子たちはなんの落ち度もない石川雄正という大臣を、正当な理由もなく暗殺したのでした。
葛城皇子はこの功により大兄に指名され、中大兄皇子となります。

この頃、中臣鎌子(後の藤原鎌足。中臣御食子の養子)が軽皇子(皇極天皇の同母弟)の舎人となります。この鎌足登場のシーンが、あの金庾信が金春秋と出会うシーンにそっくりなのですが、皇極天皇が金庾信の妹である、という点にご注意ください。私の仮説通りなら軽皇子にも釈迦族の血が入っています。

643年、中臣鎌子(鎌足)は山背大兄王の住む斑鳩の宮を取り囲み、自害に追い込みます。これが鎌足の最初に行った大悪事です。山背大兄王にはなんの咎もありませんでした。
また、その時に鎌足は「天皇記」と「国記」という貴重な歴史書を焼き払っています。これが鎌足の第二の大罪ですが、日本書紀には蘇我蝦夷(石川雄正)が火をつけたと書かれています。しかし、蝦夷には国史を焼き払う理由がありません。日本書紀は鎌足の罪を蝦夷になすりつけたのです。

645年、「乙巳の変」という大事件が発生したと日本書紀には書かれていますが、斉木説によりますとこのような事件は起こっておりません。まったくのフィクションです。
日本書紀で蘇我蝦夷として書かれた石川雄正は641年に他界しており、蘇我入鹿として書かれた石川林太郎はそれ以降も生きています。すべて架空の物語なのです。

それでは、645年には実際に何が起こっていたのかと言いますと・・・。

舒明大王は宝姫と結婚する前、石川麻古(蘇我馬子)の娘・法提郎女との間に古人皇子という子供がいました。本来ならこの古人皇子が大兄であり、次の大王になるべき身分です。
しかし、皇極帝は自分の息子である中大兄を大王にしたいと考えておりました。そこで皇極帝は弟の軽皇子を呼び、「古人皇子を出家させよ。成功したら大王職を汝に譲る」と言い渡します。軽皇子はすぐに古人皇子を出家させて吉野に追いやり、自身が即位して孝徳大王となります。そして、鎌足と共謀して吉野に兵を送り、古人皇子を斬らせたのでした。

これが鎌足第三の大罪です。このあたり、すべての事件の糸を引いていたのは鎌足と考えられるのです。鎌足がどれほどの悪逆を尽くしているか、おわかりでしょうか?・・・

もう一度整理してみましょう。中臣(藤原)氏は蘇我蝦夷(石川雄正)、山背大兄王、そして古人皇子という三名の超重要人物を暗殺しているのです。何の罪もない人物を、ただ自分の出世の野望のためだけに殺す人物は、日本の歴史すべてを俯瞰してもなかなかおりません。

鎌足の悪行はまだこれに留まらず、石川山田麿という、蘇我氏最後の血統である人物を、謀反をくわだてたという名目で誅殺しています。ここにおいて、仏教興隆に全霊を注ぎ、大きな社会貢献をしていた蘇我氏・石川氏の宗本家は滅びることになったのです。

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