蘇我氏の正体⑱ 釈迦族・宝姫の生涯。(佐藤達矢 稿)

佐藤達矢稿

蘇我氏の正体⑱ 釈迦族・宝姫の生涯。

前々回、「皇極・斉明帝は金庾信の妹・宝姫である」という仮説を提唱いたしました。
今回はこのことをさらに細かく見て行きます。

金庾信には宝姫、文姫というふたりの妹がいました。文姫のほうは新羅王・金春秋の妃となっておりますが、宝姫は日本に来て舒明天皇の皇后となった。・・・という私の仮説通りであれば、ここにおいて釈迦族の政権が日本と新羅に同時に誕生したことになります。そして、この時代を境に日本も新羅も世界有数の仏教国となって行くのです。

宝姫と文姫の間には不思議な逸話がいくつか残されています。
「三国遺事」巻第一・紀異第一・太宗春秋公の段によりますと、「ある日、宝姫が夢で西岳に登って小便をすると、小便が都一杯に満ちてくる夢を見た。文姫がそれを聞いて、「私がその夢を買おう」といい、錦のチマとその夢を交換した。」・・・というものです。
この逸話は、妹である文姫が姉を差し置いて国政を牛耳るようにあることを暗示しているように思えます。そして、宝姫は、夢を売ることで新羅国内の政治から離れた、ということも暗示しているようにも感じられます。つまり、文姫が金春秋と結婚して新羅の国政を握ること、宝姫は日本に嫁いで新羅からいなくなることを暗示しているとも考えられるのです。

また、「三国遺事」にはこの後、さらに不思議な記述が見られます。その部分を要約しますと、・・・
「その十日後、金庾信は春秋公と一緒に自分の家の前で鞠蹴りをした。遊んでいるうちに、わざと春秋公の上衣の結びひもを踏んで裂いてしまった。「家の中に入って繕いましょう」と言って誘うと、公が応じた。庾信は宝姫を呼んで「縫ってさしあげなさい」と言いつけたが、宝姫は「軽々しく高貴なお方には近づけません」と言って辞退した。こんどは妹の文姫にいいつけた。公は庾信の心の内を察して文姫とつきあうようになった。」
というものですが、この部分がどうして重要なのかといいますと、実はこの話は、日本書紀に描かれた藤原鎌足と中大兄皇子との出会いの場面にそっくりなのです。

日本書紀の記述を見てみましょう。第二十四巻・皇極天皇の段。
「中大兄が法興寺の槻の木の下で蹴鞠の催しをされたときの仲間に加わって、中大兄の御鞋が、蹴られた鞠と一緒に脱げ落ちたのを拾って、両手に捧げ進み、跪き、恭しく受け取られた。これから親しみ合われ、一緒に心中を明かし合って隠すところがなかった。」
三国遺事の成立年代は13世紀末、と言われていますので、八世紀初頭に完成したと伝わる日本書紀よりも新しく、三国遺事のほうが日本書紀の内容を模倣して書かれた、と考えるのが自然です。三国遺事は微妙に内容が重ならないように細部を変更していますが、蹴鞠という題材と、その後の国の運命を担う二人の出会いの場面を描いているという点では一致しており、話をだぶらせているということ自体、この二つの逸話にはつながりがあることが暗示されていると考えることも可能です。

なお、三国遺事はこのほかにも「ピダムの乱」という、乙巳の変に良く似た逸話を記述しています。これを三国遺事のカンニングと考えればさして意味はなくなりますが、三国遺事の作者がこの時期の日本と新羅の歴史には繋がりがあると考えて、あえて符牒として似たような逸話を織り込み、両国の歴史関係を匂わせた、としたらどうでしょうか?
ちなみにピダムという名前は毗曇と書き、これも仏教用語で(※阿毘曇abhi‐dharma:仏陀が説いた法の思想体系を表す)、新羅において仏教徒同士の軋轢があったことも暗示されているようでもあります。

歴史書にはこのパターンの記述が多く見られます。書かれた当時の政治的な圧力や統治者の血縁関係等の要因により真実が書けない場合、暗喩的な表現で真実を匂わす、という手法で、これは日本においては古事記や日本書紀にも頻繁に使われていますが、韓国における三国遺事・三国史記という書物にも多用されています。
三国遺事にはまだ続きがあって、その後、文姫は春秋公の子供を身籠ります。
金庾信はこのことに怒り、文姫を焼き殺そうとします。春秋公はこれに驚き、馬を走らせて、殺さないでくれと伝え、ただちに文姫と婚礼を挙げました。

その後、新羅は黄金時代を迎えます。春秋公と文姫の間には太子の法敏のほか、角干仁聞、角干文王、角干老且、角干智鏡ら、錚々たる国の重鎮たちが生まれます。彼らはみな釈迦族であり、仏教関係用語のついた名前が多いことにもご注意ください。角干という職掌は現代でいえば総理大臣に相当する国の最高位です。三国遺事に描かれた、姉の夢を買った成果が表れたわけです。(なお、その後、春秋公は宝姫とも結婚し、複数の子供をもうけたことになっています。私の仮説とは相反する記述で、年齢的にもそれはありえないと思えるのですが、念のため記載しておきます)。

金春秋はその後、高句麗や百済に攻められて窮地に陥りますが、唐に接近して救援を得ることに成功し、660年、ついに百済を滅ぼします。
このことがさらに、663年の白村江の戦いへと繋がって行くのですが、こうして見てみますと、当時の日本の政権内にいた百済勢力がいかに新羅勢力と確執が深く、新羅勢力の代表者であった蘇我氏をどれだけ憎んでいたか、ということがわかります。

百済勢力は最終的に日本に百済救済を決断させ、敗戦の道を進ませることになるのですが、この時期、蘇我氏の影響力は百済派によって徹底的に削られておりました。
ヤマト王権は、蘇我氏の衰退とともにその力を失って行ったとも言えるのです。

私の仮説通り、斉明帝が新羅の宝姫であったとしたら、斉明帝は最後の蘇我氏系天皇であり、また、釈迦族の血を引く天皇です。幸いなことに、斉明帝は天智・天武というふたりの大帝を産んでいますので、その後の天皇家の血統にも釈迦族の血が継承されていた、ということになります。
斉明帝が重祚してまでもなかなか皇位を譲らなかったり、その政権時に決して新羅を攻めなかったり、家臣たちの確執に関してはあえてどちらにも加担しないという姿勢を貫いてきたのは、釈迦族の血統を一日でも長く継続させていたい、という気持ちの表れだったのかもしれません。

ところでこの斉明帝は、皇極帝であった時代に乙巳の変が起こり、目の前で蘇我入鹿が殺されるのを見ていたが、言葉一つ発せずに奥に隠れた、というのが日本書紀の記述となっています。しかし、以前に言及したとおり、乙巳の変という政変自体が虚構である可能性が高く、この前後の歴史は日本書紀の作者が大幅に塗り替え、真実とは全く違う歴史を記してある可能性が極めて高いのです。つまり日本書紀は釈迦族の存在を抹消しているのです。

次節から、日本書紀がどのように歴史を改竄して行ったのか?ということを詳細に見て行きましょう。そこには、百済派の中心人物である藤原鎌足の暗躍があります。
(※部分は大須賀あきら氏のご教唆によるものです。大須賀様、ありがとうございました。

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