蘇我氏の正体⑰ 斉明天皇のルーツを探る。(佐藤達矢 稿)

佐藤達矢稿

女系相続の国である釈迦国を、日本と新羅の両国で復活させようとした蘇我氏。
日本では推古帝を最初に、その後、皇極・斉明帝が即位。新羅では善徳・真徳女王が即位し、釈迦国の女系相続制度は一応の復活を果たしました。
女系相続であった理由には、前述しましたミトコンドリア遺伝子の継承、という大目的がありますが、もうひとつの理由に、古代における女性信仰というものがあります。

古代、女性は神様でした。なぜなら、女性だけが生命を誕生させ、子孫をはぐくむことができたからです。疫病や天災から身を守る方法がなかった古代において、女性は男性よりもずっと重要な存在でした。たとえば男10人に女性90人という集団であれば繁殖は容易に行えますが、逆の男女比率の集団では繁殖が困難になります。
また、日本では長い間、妻問い婚という風習がありました。夜、男性が女性の寝屋を訪ねて行き、子供が生まれると、その子は女性の家で生活し、父親は干渉しないという生活です。

そのような社会でしたので、女性のほうが偉くなるのは当然です。古代日本に卑弥呼や神功皇后といった女性の支配者が多くいたのも当然で、蘇我氏が女性天皇を擁立したのも、ひとつにはこのような理由によるところがあったと思われます。

ちなみに、現代の日本では男系相続を主張して、男系でなければ皇位継承資格がないとする意見が大半を占めていますが、古代ではこれが逆だったのです。
男子継承が普通になって行くのは、世の中に戦争というものが発生して、以降、頻繁に戦争が起こるような時代に突入した後の話です。戦争が起こると男性が多く死んでしまうため、数の少なくなった男性の地位が必然的に向上したもので、男尊女卑というしきたりも、このあたりから生まれています。

さて、話を斉明天皇に戻しましょう。・・・前回私が主張しましたのはこの女帝が金庾信の妹・宝姫であるという説ですが、これがもし真実であれば、この時の日本には正真正銘の釈迦族の政権が誕生していることになります。
彼らの生きた年代を調べてみましょう。斉明帝の存命期間は594年~661年。いっぽうの金庾信は595~661年です。
これは日本書紀や三国史記からの数字ですが、これによりますと、金庾信のほうが斉明帝より一歳若く、妹ではなく姉だった、ということになります。が、きょうだいとして見るのにさほど無理はない年代です。

当時、日本と朝鮮半島の人々の間ではさかんに縁組が行われておりました。特に日本海貿易の利権を一手に握っていた蘇我氏にとっては、貿易相手との関係を良好なものに保つための婚姻政策による縁組が不可欠で、当時のヤマト王権とあまり関係の良くなかった新羅も蘇我氏にとっては重要な貿易相手でしたので、縁組を行ったと思われます。そして、実力者ではあったが王ではない蘇我氏と、同様に国の第一の実力者ではあっても王ではない金庾信という組み合わせは、ちょうどぴたりと釣り合う絶好の関係だったわけです。

しかも、前述しましたように、金庾信は金官伽耶国初代王妃(初代女王だったかもしれない)許黄玉の直系の子孫です。釈迦族であるこの女王の末裔の金庾信の妹・宝姫をもらい受け、日本国王の座に置くということは、釈迦族・蘇我氏の悲願でもありました。
斉明帝の生涯を調べてみましょう。
これまでの解釈では、このお方には適当な継承者がいなかったためにやむなく大王として即位し、一度王位を退いた後もやはり適当な後継者がおらずに重祚したことになっていますが、果たしてそうだったのでしょうか?
日本書紀に書かれた系図では、斉明帝は敏達天皇の孫にあたる、茅渟王という人物の娘とされています。しかし、この茅渟王という人物は正体がはっきりせず、日本書紀以外のいかなる史書にも登場してきません。母親は吉備姫王と伝わりますが、これもどうだか・・・。

むしろ、斉明帝の同母弟と伝わる軽皇子を見たほうが出自ははっきりします。軽という文字は韓の転訛形で、朝鮮半島出身であることを示しています。出自をごまかすために違う字を当てたと考えて良く、この人物は後に孝徳天皇となるのですが、当時のヤマト王権の中には、こうした半島出身者を大王にせずとも、もっと由緒正しい大王の継承者が何人もいて、この人や斉明帝が即位したことには違和感があるのです。
そして、孝徳帝の在位中、新羅からの使者がやってくることが増えています。このあたりにも孝明・斉明のきょうだいのルーツが新羅にあったことが推測されるのです。
また、日本書紀によれば、孝明帝は仏教を重んじ、神道を軽んじたとあります。このあたりも新羅ルーツが見え隠れします。

さて、斉明帝に戻って、その本名を見てみましょう。斉明帝の和風諡号は「天豊財重日足姫天皇」と言います。この和風諡号というのはその人のルーツを示していることが多く、分解してみますと、「天」は大陸から渡来して日本に定住した人につけられる文字です。
次の「豊」は現在の大分県の意味かと思われます。この時代の大分県・豊前豊後地方とヤマト王権の関係はほとんど語られておりませんが、聖徳太子をはじめとして豊国との結びつきを暗示する「豊」という文字のついた名前のある人物はこの時代に非常に多く、大分県にもこの時代の飛鳥地方との結びつきを物語る史跡はたくさん残っており、両地方には深い関係があったことが濃厚で、今後の研究が期待されるところです。
その次の「財」ですが、これは出雲王家がその名を変えて後世に残った名前「財筋」を想起させます。出雲王家には蘇我家の血筋が多数入っており、新羅と交易をしていた蘇我氏に関連する文字であると思われます。
次の「重日」は、太陽神を崇拝していた新羅の一族を暗示していると思われます。新羅地方は朝日を拝むには絶好のポジションにありました。古代に太陽信仰族が住んだ土地だったのです。つまり、新羅人は太陽信仰族の末裔です。
そして次の「足」ですが、これは古代朝鮮語であり、神功皇后の本名「息長足姫」とも重なります。神功皇后の母方のルーツは新羅にあり、息長家は日本にも進出して重要な家臣群の一翼を担っていました。

こうしてみると、斉明帝のルーツはやはり朝鮮半島にあり、それも新羅で会った可能性が高いと思われます。古事記や日本書紀ではこの「半島ルーツ」を徹底的に隠す傾向が見られますが、同時に、よくよく調べれば真実がわかる、という書き方にもなっていることが多く、この斉明帝の和風諡号にも似たような傾向が見て取れます。

そして、斉明帝のルーツが新羅だと仮定した場合、従来日本書紀で語られてきた「乙巳の変」周辺の日本の歴史は、その記述とはまったく異なった展開を見せてくるのです(続く)。

蘇我氏の正体⑰ 斉明天皇のルーツを探る。

女系相続の国である釈迦国を、日本と新羅の両国で復活させようとした蘇我氏。
日本では推古帝を最初に、その後、皇極・斉明帝が即位。新羅では善徳・真徳女王が即位し、釈迦国の女系相続制度は一応の復活を果たしました。
女系相続であった理由には、前述しましたミトコンドリア遺伝子の継承、という大目的がありますが、もうひとつの理由に、古代における女性信仰というものがあります。

古代、女性は神様でした。なぜなら、女性だけが生命を誕生させ、子孫をはぐくむことができたからです。疫病や天災から身を守る方法がなかった古代において、女性は男性よりもずっと重要な存在でした。たとえば男10人に女性90人という集団であれば繁殖は容易に行えますが、逆の男女比率の集団では繁殖が困難になります。
また、日本では長い間、妻問い婚という風習がありました。夜、男性が女性の寝屋を訪ねて行き、子供が生まれると、その子は女性の家で生活し、父親は干渉しないという生活です。

そのような社会でしたので、女性のほうが偉くなるのは当然です。古代日本に卑弥呼や神功皇后といった女性の支配者が多くいたのも当然で、蘇我氏が女性天皇を擁立したのも、ひとつにはこのような理由によるところがあったと思われます。

ちなみに、現代の日本では男系相続を主張して、男系でなければ皇位継承資格がないとする意見が大半を占めていますが、古代ではこれが逆だったのです。
男子継承が普通になって行くのは、世の中に戦争というものが発生して、以降、頻繁に戦争が起こるような時代に突入した後の話です。戦争が起こると男性が多く死んでしまうため、数の少なくなった男性の地位が必然的に向上したもので、男尊女卑というしきたりも、このあたりから生まれています。

さて、話を斉明天皇に戻しましょう。・・・前回私が主張しましたのはこの女帝が金庾信の妹・宝姫であるという説ですが、これがもし真実であれば、この時の日本には正真正銘の釈迦族の政権が誕生していることになります。
彼らの生きた年代を調べてみましょう。斉明帝の存命期間は594年~661年。いっぽうの金庾信は595~661年です。
これは日本書紀や三国史記からの数字ですが、これによりますと、金庾信のほうが斉明帝より一歳若く、妹ではなく姉だった、ということになります。が、きょうだいとして見るのにさほど無理はない年代です。

当時、日本と朝鮮半島の人々の間ではさかんに縁組が行われておりました。特に日本海貿易の利権を一手に握っていた蘇我氏にとっては、貿易相手との関係を良好なものに保つための婚姻政策による縁組が不可欠で、当時のヤマト王権とあまり関係の良くなかった新羅も蘇我氏にとっては重要な貿易相手でしたので、縁組を行ったと思われます。そして、実力者ではあったが王ではない蘇我氏と、同様に国の第一の実力者ではあっても王ではない金庾信という組み合わせは、ちょうどぴたりと釣り合う絶好の関係だったわけです。

しかも、前述しましたように、金庾信は金官伽耶国初代王妃(初代女王だったかもしれない)許黄玉の直系の子孫です。釈迦族であるこの女王の末裔の金庾信の妹・宝姫をもらい受け、日本国王の座に置くということは、釈迦族・蘇我氏の悲願でもありました。
斉明帝の生涯を調べてみましょう。
これまでの解釈では、このお方には適当な継承者がいなかったためにやむなく大王として即位し、一度王位を退いた後もやはり適当な後継者がおらずに重祚したことになっていますが、果たしてそうだったのでしょうか?
日本書紀に書かれた系図では、斉明帝は敏達天皇の孫にあたる、茅渟王という人物の娘とされています。しかし、この茅渟王という人物は正体がはっきりせず、日本書紀以外のいかなる史書にも登場してきません。母親は吉備姫王と伝わりますが、これもどうだか・・・。

むしろ、斉明帝の同母弟と伝わる軽皇子を見たほうが出自ははっきりします。軽という文字は韓の転訛形で、朝鮮半島出身であることを示しています。出自をごまかすために違う字を当てたと考えて良く、この人物は後に孝徳天皇となるのですが、当時のヤマト王権の中には、こうした半島出身者を大王にせずとも、もっと由緒正しい大王の継承者が何人もいて、この人や斉明帝が即位したことには違和感があるのです。
そして、孝徳帝の在位中、新羅からの使者がやってくることが増えています。このあたりにも孝明・斉明のきょうだいのルーツが新羅にあったことが推測されるのです。
また、日本書紀によれば、孝明帝は仏教を重んじ、神道を軽んじたとあります。このあたりも新羅ルーツが見え隠れします。

さて、斉明帝に戻って、その本名を見てみましょう。斉明帝の和風諡号は「天豊財重日足姫天皇」と言います。この和風諡号というのはその人のルーツを示していることが多く、分解してみますと、「天」は大陸から渡来して日本に定住した人につけられる文字です。
次の「豊」は現在の大分県の意味かと思われます。この時代の大分県・豊前豊後地方とヤマト王権の関係はほとんど語られておりませんが、聖徳太子をはじめとして豊国との結びつきを暗示する「豊」という文字のついた名前のある人物はこの時代に非常に多く、大分県にもこの時代の飛鳥地方との結びつきを物語る史跡はたくさん残っており、両地方には深い関係があったことが濃厚で、今後の研究が期待されるところです。
その次の「財」ですが、これは出雲王家がその名を変えて後世に残った名前「財筋」を想起させます。出雲王家には蘇我家の血筋が多数入っており、新羅と交易をしていた蘇我氏に関連する文字であると思われます。
次の「重日」は、太陽神を崇拝していた新羅の一族を暗示していると思われます。新羅地方は朝日を拝むには絶好のポジションにありました。古代に太陽信仰族が住んだ土地だったのです。つまり、新羅人は太陽信仰族の末裔です。
そして次の「足」ですが、これは古代朝鮮語であり、神功皇后の本名「息長足姫」とも重なります。神功皇后の母方のルーツは新羅にあり、息長家は日本にも進出して重要な家臣群の一翼を担っていました。

こうしてみると、斉明帝のルーツはやはり朝鮮半島にあり、それも新羅で会った可能性が高いと思われます。古事記や日本書紀ではこの「半島ルーツ」を徹底的に隠す傾向が見られますが、同時に、よくよく調べれば真実がわかる、という書き方にもなっていることが多く、この斉明帝の和風諡号にも似たような傾向が見て取れます。

そして、斉明帝のルーツが新羅だと仮定した場合、従来日本書紀で語られてきた「乙巳の変」周辺の日本の歴史は、その記述とはまったく異なった展開を見せてくるのです(続く)。

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