蘇我氏の正体⑬ 蘇我氏のルーツは釈迦族である。(佐藤達矢 稿)

佐藤達矢稿

蘇我氏の正体⑬ 蘇我氏のルーツは釈迦族である。

蘇我氏とはいったい何者か?・・・そのルーツを探って行きますと、定説では武内宿禰から始まる大臣家、ということになります。
しかし、武内宿禰と蘇我家がつながっているかどうかということを疑問視する声も多くあり、証拠と呼べるようなものもないため、真相ははっきりしません。
私はここで新説を提唱します。それは、「蘇我氏の先祖は釈迦族である」という説です。

この説は今まで誰も提唱していません。が、あのお釈迦様と蘇我氏がつながっているとしたら、蘇我氏がどうしてあれほどまでに日本での仏教興隆に力を注いだ一族であったかということがはっきりします。蘇我氏は自分たちのご先祖様が作った宗教を広めようとしていた可能性があるのです。
蘇我氏と釈迦族のつながり。それは遥かなる時空を超えた旅でした。インドから日本へ。

お釈迦様の誕生から蘇我氏による日本仏教の確立まで800年あまり。
お釈迦様の入滅後、隣国から攻撃を受けた釈迦族の城は陥落。釈迦族は逃亡し、流浪の民となりました。そしてその一部は中国へと逃げ、そこからさらに朝鮮半島に、そして日本へと、何十代もの世代を重ねながら流浪の旅をしてきたのでした。

詳しく見て行きましょう。釈迦国滅亡後の紀元前3世紀頃、その東の地にサータヴァ―ファナ王国が誕生します。この国の王は釈迦族を保護し、仏教に帰依しました。
しかし、そのサータヴァーファナ王国も隣国との戦争に敗れ、紀元前1世紀に滅亡します。
釈迦族は再び難民となり、現在の中国の四川省に逃れます。

時の中国は前漢の末期。中央の権力が弱まり、地方豪族の勢いが盛んになっていた時期でした。釈迦族は四川地方で盤踞していた許氏の一族に保護され、許氏の王家と婚姻を結びます。ここで生まれたのが許黄玉という女性でした。

前漢が滅び、新が勃興、その新も滅んで後漢王朝が成立。漢王朝は再び強力な集権体制を取り戻します。

後漢の軍勢に許氏の一族は鎮圧され、許黄玉は長江を下って逃亡します。そして、そこから船で朝鮮半島まで行き、現在の韓国・金海市のあたりに金官伽耶国を建国していた金首露王と結ばれたのでした。
金官伽耶国は鉄の生産で栄えた国でした。当時、日本ではこのあたりを任那と呼んでいたほど日本との結びつきが強く、日本の一部と言っても良いくらいの地域でした。したがって、このときすでに日本には釈迦族が到来していたと言っても良いかもしれません。

金首露王と許黄玉の間に生まれた子供たちの多くは日本に来て、日本の有力な豪族たちの始祖となって行きます。宇佐氏、日奉氏、大伴氏、阿智氏、尾張氏など、その後の日本の歴史を彩る錚々たる氏族たちです。その氏族たちの中には、のちに蘇我氏と呼ばれる氏族と婚姻を結んだ子孫もいました。このとき、蘇我氏の中に釈迦族の血脈が入っています。
伽耶諸国は小国分立のまま、長い期間推移しました。これは君主が釈迦族であったため、殺戮を嫌い、戦争を行わなかったためでしょう。そのため次第に強大化した新羅や百済に圧迫されることになり、562年に伽耶諸国は滅亡します。

伽耶を滅ぼしたのは新羅でしたが、新羅王は伽耶の遺臣を皆殺しにするようなことはせず、むしろ厚遇して自国の臣として高い地位を与えました(この新羅王家にも釈迦族・許黄玉の血が入っています)。そのため金首露王と許黄玉王妃の子孫たちは生き残り、第12世の金庾信は新羅の将軍として上大等と呼ばれる、国のトップの地位にまで昇りつめます。
この金庾信の活躍する時期が、日本で蘇我氏が活躍する時期と重なるのです。

出雲伝承によりますと、蘇我氏はこの頃、北陸地方一帯に広大な蘇我王国を築いていました。その版図はヤマト王権に匹敵するほど広く、一族からは継体天皇が輩出、実質的に日本の政権を手中にしていたと言って良い存在でした。
蘇我氏はまた、北陸地方で採れる鉱物などを半島に輸出し、莫大な富を築いておりました。
この時期、蘇我氏はヤマト王権を滅ぼして政権を奪おうと思えばできたはずですが、そういうことをせずに臣下の地位にじっと甘んじています。このあたりにも私は釈迦族の匂いを感じるのです。

蘇我氏の初期の当主として名前の残る蘇我石川宿禰、満智、韓子、高麗といった人物は半島と関係が深く、ヤマト王権と新羅、百済との関係を取り持つような役割を果たしていたと考えられます。
蘇我氏初代の石川宿禰は武内宿禰の三男と伝わる人物です。この四世孫に石川稲目という人物がいて(新撰姓氏録による)、この人物が記紀では蘇我稲目と呼ばれました。

稲目の子が馬子。そして蝦夷、入鹿と続いて行きますが、これらはすべて日本書紀が捏造した姓名です。正しくは蘇我稲目は石川稲目。蘇我馬子は石川麻古。蘇我蝦夷は石川雄正。蘇我入鹿は石川林太郎というのが本名です。彼らは日本書紀では稀代の悪役のように描かれていますが、実際には仏教興隆に力を尽くした尊い一族でした(斉木雲州氏による)。

さて、話を初代・蘇我石川宿禰に戻しましょう。出雲伝承によれば武内宿禰は晩年を出雲王国で過ごし、出雲でも子種を残したと伝わります。蘇我家と出雲王国家は何代にもわたって婚姻を繰り返すほど密接な間柄でしたので、もしかしたら石川宿禰は武内宿禰と出雲王女の間に生まれた子供だったのかもしれません。もしそうなら、石川宿禰が北陸に地盤を持った理由もわかります。彼は出雲王家と連携して朝鮮半島との交易を一手に取り仕切り、潤沢な資産を形成し、勢力を拡大したのでした。現在の石川県という県の名前も彼の名に由来するという説もあるほど、彼は強い権力を築きました。

この時代、百済と新羅は毎年ヤマト王権に朝貢を行うなど日本の勢力は強く、特に高句麗と新羅に圧迫されていた百済は日本と結託して国を守るため必死でした。
百済がこの時期にヤマトに贈った宝物は今でも国立博物館のそばの「法隆寺宝物殿」が満杯になるほど多く、さらに国王の王子を人質に差し出すなど、徹底したヤマト懐柔戦術を行っていました。日本に来た百済の王子たちは時に国政に口をはさむこともあり、ヤマト・百済の軍事同盟を繋ぎとめるため必死の働きをしておりました。

一方、新羅のほうは百済と長年にわたって国境紛争を繰り返しており、新羅が百済を攻めるとヤマトから百済応援部隊が出陣する、ということが続いておりました。そのため新羅と日本は敵国同士と言って良いような関係でしたが、蘇我氏は戦争を好まず商業交易に力を注いでいたため、蘇我氏と新羅の関係は必ずしも悪いものではありませんでした。

蘇我氏は交易を円滑に行うため、百済とも新羅とも婚姻関係を結びました。特に新羅と血縁関係のある氏族はこの時期の日本には少なく、蘇我氏は新羅との関係調整役としては貴重な存在だったのです。この時期の蘇我氏の中には蘇我善徳という人物がいて、私はこの人物は、もしかしたら新羅の善徳女王と同一人物なのではないかと考えています(続く)。

(写真は韓流ドラマ「善徳女王」での善徳女王と金庾信)

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