真説仏教伝来 ①

佐藤達矢稿

今回は、九州大分県に在住の日本古代史研究家の佐藤達矢氏の論考をシリーズでご紹介したいと思います。

氏は、日本古代史をアジア、或いはそれよりは遠い中近東との広い交易の地理的考察を緻密に論じておられることが秀逸です。

そして、その広い論考の一部になりますが、日本への仏教伝来の固定された、欽明天皇時よりさらに過去に想定されておられています。

Yi Yin

以下、氏の精緻な文章を読み込んで頂ければ嬉しいです。

真説仏教伝来① 許氏一族と塩土老翁、猿田彦

 皆様は日本に仏教が伝来したのはいつ頃と考えておられますでしょうか?

 私が学校の日本史の時間で習った仏教伝来の時期は、私の記憶では聖武天皇在位時、752年の大仏開眼を持って仏教伝来としていたように思えます。

 が、実際にはそれよりも前の時代に蘇我氏と物部氏が仏教派と神道派に分かれて激しく争っておりますし、またそれ以前の時代にも仏教は日本に入ってきていたようです。

 これが最近では「仏教公伝」という言葉で定義され、その時期は一般的に6世紀半ばとされているようです。

 「日本書紀」によりますと、AD552年(欽明天皇13年)、10月に百済の聖明王が使者を遣わし、仏像や仏典とともに仏教流通の功績を賞賛した上表文を献上したと記されています。これをもって「仏教公伝」と、現在は定義されているようです。

 しかしこれは、日本が国家としての集権体制を整え、日本政府として正式に外交を行うようになったのちに公式に仏教が伝播された時期ということであって、「最初に日本列島に仏教が伝えられた時期」ではありません。

 欽明朝よりずっと以前から、仏教は断続的に日本に伝えられてきました。

 朝鮮半島においてはAD4~5世紀に高句麗、百済、新羅の順に仏教が伝わり、その後日本に伝播したと考えられているようです。

 これについては様々な研究書があり、仏教を保護した王の名前や仏教伝播のために渡来した僧の名前や業績についてもかなり明らかになっています。

しかしながら、私は日本における最初の仏教伝来はAD1世紀の終わりごろであったと考えています。このことはまだおそらくだれも指摘していませんが、古代史を研究しておりますとだんだんとそう考えざるを得なくなってくるのです。

これから、私の考える日本最初の仏教伝来についてご説明して参りましょう。

 私の考える日本最初の仏教伝来の場所は現在の九州、福岡県の糸島市。ここには当時、伊都国という国がありました。ここの雷山という場所、現在、千如寺というお寺のあるあたりが最初の伝来地だと私は考えています。

 やってきた仏教僧は、インドから来た許氏という一族のひとりであったと思われます。

 許氏は糸島に上陸した後、福岡・大分両県にまたがって仏教を広め、その後西日本全域にその足跡を残したようです。

 ・・・話はAD41年、朝鮮半島の南端に金官伽耶国という国が建国されたところから始まります。

 この国の始祖・首露王の王妃は許黄玉という女性で、インドのサータバーファナ王国の王室の血を引く女性でした。

 そして、許黄玉がインドから半島に渡来した時、数十人の家臣団とともに、長遊和尚(別名宝玉禅師)という名の兄が同行していました。

 この兄は悟りを開いた名僧であり、首露王と許黄玉の間に生まれた十二人の子供のうちなんと十人を僧として出家させ、金海の寺院で修行させ、彼らをも悟りに導いています。

 許黄玉と長遊和尚一族のルーツであるインドのサータバーファナ王国の版図の中には、古代コーサラ国の領土もあり、その中にはお釈迦様の生まれた釈迦国もありました。彼らが釈迦族の血を引いていた可能性も否定できません。

 キリスト教もそうですが、仏教もその成立の時点から苦難の歴史を宿命づけられています。

 お釈迦様誕生当時、釈迦国はコーサラ国の属国でした。その上、釈迦国はコーサラ国が対立していたマガダ国との国境に近く、いつ敵が侵入してきて戦争が起こってもおかしくないような状況の中でお釈迦さまは生まれたのでした。

 しかも、当時のインド全体に敷衍していたバラモン教という宗教は絶対的なカースト(階級社会)を基盤とする宗教で、人間には家柄による尊卑の区別はないとするお釈迦様の教義とは正反対のものでした。このため、仏教は成立当初からバラモン教徒に迫害を受け続け、現代に至ってもまだインド国内での仏教の普及率は5%程度しかありません。お釈迦様の生まれ故郷でありながら、インドではそれほどに仏教の普及は困難だったのです。

お釈迦様の死後、コーサラ国はマガダ国との戦争に敗れ、釈迦族は東方に敗走しました。許黄玉や長遊和尚はその釈迦族が逃亡したあたりの土地で生まれています。このあたり、私には釈迦族との関連が推測されるのです。少なくとも、長遊和尚が仏教の高僧であったということは、お釈迦様となんらかのつながりがあったと考えた方が自然かと思われます。

コーサラ国が滅びた後、BC3~1世紀頃、この地にサータバーファナ王国が誕生します。

サータバーファナ王国はドラヴィダ人の興した国で、デカン高原あたりから北に進出、かつてコーサラ国だった地域を支配下に入れます。

サータバーファナ王国の歴代の王たちはバラモン教徒でしたが、一方で仏教やジャイナ教をも保護しました。これは古代の政治の中ではかなり珍しいと言える現象ですが、このため仏教は奇跡的に生き延びました。この王室には宗教を複数受け入れる度量があったのです。

一方でこの国は季節風を利用して西のローマ帝国と貿易を行って財を成すという、商業的にも優れた能力を持つ国でした。この王国の遺跡からはローマの金貨が発掘され、古代にインドとローマを結ぶ交易路があったことが確認されています。

そのうえ、彼らはローマとばかり貿易を行っていたのではありませんでした。遠く極東方面、朝鮮半島や日本までも、貿易資源と取引相手を求めてやってきていたのです。

私の私見では、記紀に記された塩土老翁と猿田彦はこのサータバーファナ王国の出身の貿易商人です。たとえば日本書紀に伝えられる猿田彦の風貌は、「その神の鼻の長さは七咫(ななあた)、背(そびら)の長さは七尺(ななさか)、目が八咫鏡(やたのかがみ)のように、また赤酸醤(あかかがち)のように照り輝いている」というものですが、咫という長さは手を開いたときの親指と人差し指の間隔くらいらしいので、仮に12センチくらいと少なめに見積もっても猿田彦の鼻は84センチという長さだったということになります。これは扁平な骨相を持つ倭人が初めて鼻の高いドラヴィダ人を見たときに受けた衝撃的なイメージが語り伝えられていると考えれば納得が行きます。

塩土老翁、猿田彦は記紀におけるかなり重要なキャラクターですが、直接日本を統治した人物ではありませんでした。彼らの目的は通商にあり、侵略が目的ではなかったのです。

彼らが初めて政権を手中にしたのは、金官伽耶国において一族の女性・許黄玉が首露王の王妃となったときでした(続く)。

塩土老翁

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