スサノオの足跡⑦ スサノオ族のルーツは中国南部にある(佐藤達矢 稿)

佐藤達矢稿

スサノオの足跡⑦ スサノオ族のルーツは中国南部にある
中国、東晋の干宝という人物が4世紀に書き残した書物「捜神記」に、きわめて興味深い逸話があります。その話はあの、スサノオ族の出自を暗示しているとも思えるからです。
その逸話とは、「捜神記」巻十一266「首の仇討ち」という物語です。
その内容は、・・・「楚に干将・莫邪という夫婦がいた。夫の干将は楚王のために三年かかって雌雄二振りの剣を作り、雌の剣を楚王に献上したが、王は剣の完成が遅れたのを怒り、干将を殺してしまった。干将は王から殺されることを事前に察知しており、「雄の剣は石の上に生えている松の木の根元に置いてある」と莫邪に言い残し、彼らの息子がそこを調べたところ、雄剣が見つかり、息子はそれを持って楚王のところに復讐に行った・・・」。
・・・話はまだ続くのですが、ここまでで十分です。
なぜこの逸話がきわめて重要なのかと言いますと、「石の上の松の下にある剣」とは、日本の石上神宮の名前の語源となった剣、すなわち石上神宮のご神体である、神剣「布都斯御魂」であり、干将が王に献上した剣は同じく御神体の「布都御魂」に間違いないと思われるからです。
これまで見てきましたように、「布都斯御魂」はスサノオの剣、「布都御魂」は建御雷命の剣、そして楚国最後の王・熊負芻の剣でもありました。
スサノオ族は朝鮮半島から日本の出雲地方に渡ってきたと考えられるのですが、決して朝鮮半島に土着していた民族ではなく、その前にどこにいたかというと、どうやら中国南部、この捜神記の逸話の舞台になった場所にいたと推測されるのです。
この話の中で、「干将の墓は中国汝南郡、現在の江西省宜春県の境」と明記されています。
その土地こそが、スサノオ族の故郷だと思われます。
下のウイキペディアの地図でその位置をご確認ください。
この時代、中国には数十、あるいは数百の民族が入り乱れて居住していたようです。
民族は時代とともに混合しあうものですが、現代でもなお江西省だけで38系統もの民族がいるようですから、古代にはもっと多様な民族がいたことでしょう。
そして、現代の江西省の中にも朝鮮族、満州族などの北方系民族や、チワン族、ミャオ族など、日本人とよく似た生活習慣や文化を持ち、容貌もよく似ている民族がいます。スサノオ族はそれらの民族の中の一部族だったのかもしれません。
興味深いのは、このエピソードの主人公であり布都御魂の製作者である干将と、捜神記の作者干宝の名前には、いずれも北方遊牧民族の首長であることを表す「干」という文字が使われていることです。この「干」という字はチンギス干などモンゴル人の首長の職位でもあり、かつ、朝鮮半島においては新羅国の王の職位でもありました。・・・記紀によりますと、スサノオが高天原から移動して行った先が新羅のソシモリという場所です。これは偶然の符合でしょうか?
また、春秋時代の呉国の別称もまた「干」でしたので、干将は呉国の出身だったのかもしれません。そして彼が楚王から殺された遠因はそのあたりにあるのかもしれません。
ちなみに干将が呉国の人であったなら、あの太伯と血縁がある可能性もあります。
また、「干将」という名前はどうも個人名ではなく職掌のような気がします。そのまま「干国の将軍」とも読み取れますし、この話の作者の「干宝」という名前は「王の下にいる逸材」という意味にも受け取れます。そして両者が親族だった可能性も考えられます。
彼らは江西省においては王族ではなく、滅ぼされた呉国の民であった可能性が高く、優れた剣を生み出す技術を持っていたため楚に召し抱えられとしたら、楚王は彼らを登用する一方で彼らに対する警戒を解かなかったことでしょう。そのため、剣の製造の遅れを理由に干宝は誅せられることになり、干将は雌の剣「布都御魂」だけを楚王に献上したものの、雄剣「布都斯御魂」は家宝として一族に残し、これを持ったスサノオ族は北上して朝鮮半島に行くことになったものと思われます。
残念ながら、干将が仕えていた楚王が何代目の何という名前の王であるのかは書き記されておりません。物語は、殺されて首だけになった干将の息子がそれでも楚王をにらみつけ、ついには同じ釜で楚王の首とともに煮られるという怪奇な終わり方をしており、そのため楚王の正体を書けない事情があったのだろうと思われます。
ただ、歴代の楚王はすべて「熊」という姓を持っています。この「熊」氏のいずれかの王であったことは間違いなく、「布都御魂」は国宝として楚国最後の王・熊負芻まで引き継がれたようです。熊負芻の発音は「shion fu chu」。シオン布都と読めます。したがって「布都御魂」とは、楚国代々の王の魂が籠った剣、という意味に解釈できます。
朝鮮半島に「高天原」が出現したのはBC1世紀ごろだろうと私は考えています。・・・
とすれば、スサノオ族の楚国出奔はおそらくその少し前のことだと思われます。
干宝の没年はAD336年。彼の時代からは3~400年位昔の事跡を書き留めたもので、もともとこの話は口伝により伝承された物語であったと思われます。
この干宝のいた東晋という国は、三国時代の末に中国を統一した晋王朝の司馬炎の子孫が南に移って建国した国で、干宝は三国志の時代の逸話も多く書き残しています。
捜神記に登場する左慈、于吉という妖術を使う仙人は「三国志演義」にも登場します。三国志演義はかなりな量の内容、それも怪奇なエピソードばかりを捜神記から拝借しており、その意味では干宝は三国志の原作者の一人とも言えるでしょう。
そして、どうやら干宝は道教の素養もあり、後の陰陽道や祈祷術など日本特有の呪術の元祖のような人物でもあったようでもあります。もしかしたら八咫烏、鴨氏等のルーツかもしれません。
また、すでに多くの人々が指摘していることですが、この捜神記の逸話からも、スサノオ族はやはり優れた製鉄加工技術を持った集団だったことが裏付けられます。
近年になってシルクロードの北方に「アイアンロード」という製鉄技術伝播の道があることが発見されました。この道筋にはずっと製鉄所や鍛冶工房の遺跡が並んでおり、考古学的に確かな裏付けがあります。
私は今回「スサノオ族の故郷は中国江西省である」という説を提唱しました。しかし、実はそこもひとつの停泊地でしかなく、彼らの真の故郷はずっと西方にあることでしょう。
その足跡はアイアンロードを辿って、匈奴、タタール、スキタイやヒッタイト族の故郷に向かって行くことでしょう。言うまでもなく、鉄の加工技術を発明し、伝播したのは彼らなのですから・・・・。

コメント

タイトルとURLをコピーしました