蘇我氏の正体㊱ 蘇我氏=武内宿禰ルーツ説を追う。(佐藤達矢 稿)

佐藤達矢稿

蘇我氏の正体㊱ 蘇我氏=武内宿禰ルーツ説を追う。

 古事記や日本書紀によりますと、蘇我氏のルーツは武内宿禰であり、この人を先祖として別れた氏族の一つである、という説明がされています。

 一方で、蘇我氏は渡来人である、という説も多くあり、この二つの説は多くの学者によって論争の的になっておりますが、私はこの、一見矛盾する二つの説は両方正しい、と考えております。

 蘇我氏の先祖を男系嫡子のみに限って遡って行きますと、蘇我満智あたりですでに朝鮮半島出身であることは疑いなく、日本に定住したのはおそらく蘇我稲目からです。

 なので、蘇我氏は渡来人か?という質問には「イエス」と答えざるを得ないのですが、だからといって蘇我氏が武内宿禰とは無関係であるとは言い切れないのです。
 おそらく、蘇我氏の先祖のうち、母系の中にどこかで武内宿禰の血が入っている、と私は考えます。

 この説を裏付ける重要な記述が日本書紀にあります。

 それは、武内宿禰ゆかりの地である葛城地方の下賜を求めた蘇我馬子に対し、推古天皇が「私は今まであなたのいうことはすべて聞き入れてきたが、これだけは承認できない」と言って拒否した、というエピソードです(巻第二十二 推古天皇条)。

 改ざんの多い日本書紀なのでこれを鵜呑みにすることは危険ですが、このエピソードには蘇我氏を誹謗中傷するような作為は認められず、そのため、この部分は真実なのではないか?と思えるのです。

 事実、葛城地方には蘇我氏関連の遺跡は認められないのですが、この地方を越えて大阪府に入り、南河内郡太子町まで行くと、推古天皇や用明天皇、聖徳太子など、蘇我氏系の重要人物のものと思われる古墳がいくつも存在します。

 その位置は、蘇我馬子や蝦夷の居宅のあった甘樫丘から見ると、ちょうど葛城山を仰ぎ見た向こう側、というポジションになり、蘇我氏にとっては葛城山の方角を拝むことで代々の先祖にお参りを行うことができる、ということになります。

 葛城地方の領有を認められなかった馬子が、それならばせめて少しでも葛城に近い場所にと考え、南河内の地に先祖の墓群を作ることを思い立った、と考えれば納得が行きます。

 そして、日本における蘇我氏発祥の地と思われる橿原市曽我町(宗我都比古神社がある)や、山田、石川といった蘇我氏ゆかりの地からも南河内は離れており、飛鳥の都を守るように点在する蘇我氏の領地からもかなり離れています。このことは何を意味するのか?ということを考えた場合、乙巳の変以降、蘇我氏が迫害を受け続けたことと関係がありそうな気がします。

 日本書紀を素直に信じて読むなら、乙巳の変で蘇我入鹿は殺害され、その父・蝦夷は自害。
次いで、馬子の孫であった蘇我倉山田石川麻呂は冤罪で追い詰められて殺され、その兄弟の蘇我日向は大宰府に左遷させられます。

 加えて、蘇我氏系の大王である用明天皇の墳墓は最初石舞台古墳であったものが、後に南河内郡に改葬された、という説があります(斉木雲州著「上宮太子と法隆寺」)。

 用明天皇は即位後わずか二年で崩御していますが、私は崇仏派であった大王が廃仏派に殺された可能性が高いと考えます。

 日本書紀は藤原鎌足の用明天皇暗殺という大悪事を隠蔽するため、蘇我馬子の崇峻天皇暗殺という架空の事件を捏造し、事実とは真逆の歴史を書き記したのではないか?
と、私には思えるのです。と言いますのは、姪である推古天皇に葛城地方の下賜を願い出て、断られると文句も言わずに引き下がっている蘇我馬子の人物像と、崇峻天皇が気に食わないから殺してしまう、という馬子像はまったく性格を異にしており、同一人物の行動とはとても思えないからです。

 当時の馬子の権力を持ってすれば、葛城の領有を天皇に認めさせることなど、いともたやすくできたはずです。しかし、馬子はそれをしなかった。自分の姪である天皇に対しても臣下の礼を失うことはなかった。・・・これこそが馬子という人物を正確に伝えている描写ではないかと思えるのです。

 さて、では蘇我氏=武内宿禰ルーツ説を整理してみましょう。

 これは古事記、日本書紀の両方にそう書いてありますので、一般的にはそう思われています。
 しかしながら、蘇我氏のルーツをたどって行くと、蘇我満智あたりから大陸の出身であることがはっきりと見てとれるようになります。
 
 蘇我氏の本拠地は百済の木浦地方ではなかったか?と前稿で書きましたが、そこにいた蘇我氏の祖先は、おそらく葛城襲津彦(武内宿禰の子)と接触があったはずです。

 襲津彦は神功皇后の時代の人で、新羅征伐の大将でしたが、新羅の策略に乗せられて一時、伽耶諸国を攻撃しています。この地は蘇我氏の拠点であった木浦地方に近く、新羅地方にも勢力を持っていた蘇我氏にとって、襲津彦の来襲は恐るべき災難でした。

 この時、おそらく蘇我氏は一族の娘を襲津彦の妻として差し出し、この二人の間に生まれた子供は襲津彦の子として日本軍の中でも重要な地位を占めるようになり、これが縁になって蘇我氏が日本に移住するようになって行った、と私は考えます。

 この仮説を裏付ける記述が「百済記」逸文にあります。この書によりますと、襲津彦に攻められた加羅(伽耶諸国のひとつ)の王家は天皇に直訴し、怒った天皇は木羅斤資(蘇我氏の先祖と思われる)を遣わして襲津彦を攻めさせた、とあります。
 つまり、蘇我家と武内家とは、加羅の地で一度、交戦したことがあるのです。

 この戦いの後、蘇我家(木羅斤資)と武内家(襲津彦)の間で政略結婚が行われた可能性は十分にあると思われます。

 また、襲津彦という名前は、古事記においては「曽都彦」と書かれています。この名前はもしかしたら、「曽我(蘇我)家の人」という意味なのかもしれません。

 最後にもうひとつ。武内宿禰の子供が蘇我石川宿禰である、というのが記紀の系統図ですが、これは年代が合いません。武内宿禰と石川宿禰の間にもう一人いる、と考えたほうがその後の蘇我家代々の事績と整合してきます。それが葛城熊襲津彦です。
蘇我氏はこうして、女系先祖の中に武内宿禰の血を取り入れていた、と考えられるのです。

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