蘇我氏の正体㉗ 石仏から辿る蘇我氏のルーツ。(佐藤達矢 稿)

佐藤達矢稿

蘇我氏の正体㉗ 石仏から辿る蘇我氏のルーツ。

蘇我氏のルーツを遡って行きますと、伝えられる蘇我氏系図の中、葛城襲津彦の息子の一人で蘇我氏の始祖となった人物に「蘇我石川宿禰」という人物がいます。

それから数代を経て、蘇我馬子の孫となる人物の中に「蘇我倉山田石川麻呂」という人物がいて、さらにその後も石川姓を名乗る人物が輩出し、蘇我氏は石川氏と姓を変えて、その血流を今に残すことになります。

この「石川」という姓ですが、このサイト主宰者の堀哲也さんによりますと、「石仏の制作者」≒「石工」という意味があるそうです。
私はこの名前に重要な意味があると考えています。

蘇我氏の中に石川姓を名乗る人物があることには、彼らが居住した地区が「石川」という地名の場所だったから、という解釈があります。が、私はこれは逆であり、石川姓を名乗る有力者が住み着いた土地だった場所を、その人の姓と同じ名前で呼ぶことになったものと考えます。

蘇我氏の手によって飛鳥時代に石仏が作られたという記述はどこにもありません。が、石仏群は日本中に点在しており、その起源は飛鳥時代ごろにまで遡れるようです。
たとえば大分県の臼杵石仏群は、多くが法隆寺の仏像と同じ三位一体の形式で作られており、このふたつは同じ宗教意識の中で作られたものと判断できます。
ということは、臼杵石仏は蘇我氏の手による制作と考えられるのです。

蘇我馬子らが仏教を日本に取り入れた当時、朝廷内には猛烈な廃仏派がいました。寺に火をつけたり、仏像が海に投げ込まれたりといった乱暴狼藉が絶えなかったため、馬子らは廃仏派の少ない豊後国の山奥にひそかに石仏群を作ったのでしょう。
当時の政治の中心であった飛鳥から法隆寺のある斑鳩の里はずいぶん離れており、聖徳太子の手になるとされる四天王寺はさらに離れ、大阪湾にほど近い場所にあります。
そこから船を浮かべ、瀬戸内海を渡れば数日で臼杵湾までたどり着けます。
当時の蘇我氏は廃仏派から狙われ、命の危険すらありました。馬子らは万一の事態に備えて脱出ルートを確保しておいたのでしょう。
大分まで逃れられたら、その先は彼らのルーツである朝鮮半島まではもうすぐです。

ところで、石仏というのはアジア全域に広く存在し、その発端はインドのアジャンタ石窟群に見ることができます。
この石窟群はサータバーファナ王国という国がそこにあった時代に作られたもので、この国の歴代の王は皆仏教を保護しておりました。のみならず釈迦族の女性を王妃として娶り、すすんで釈迦族の血統を家系の中に取り入れたのでした。
このサータバーファナ王国の王女であった許黄玉という女性(つまり釈迦族)が、紀元前1世紀にはるばる朝鮮半島に渡ってきて、金官伽耶国という国を築いた金首露王という王様の王妃となっています。
この金首露・許黄玉夫妻には十一男二女もの子供があったとされ、その大半は海を渡って日本に向かったという伝説があります。

蘇我氏の時代とは500年ほどの隔たりがあるため、許黄玉の子孫が蘇我氏であるという証拠にはなりません。しかし、血がつながっている可能性はかなり高いのです。
蘇我氏という一族には不思議なことに、当主の妻女は半島からもらうというしきたりがありました。蘇我氏代々の当主の中には蘇我高麗、蘇我韓子という名前の人物がいますが、この名前は母方の出自を表すもので、蘇我氏は日本に来てからも、半島から嫁を迎える習慣を持っていたことがわかります。

そして、ここが重要なのですが、釈迦族の相続形態は女系相続であり、代々の家主(王)は女の子だけが相続できるというシステムを持っていました。
気がつきにくいことですが、金官伽耶国の王は、じつは金首露ではなく許黄玉であり、蘇我氏歴代の当主の家中においてもまた、真の家主はその妻であった、とも考えられるのです。

このことを裏付けるように、この時代、日本の歴史上初めての女帝である推古天皇が即位しています。即位させたのは蘇我馬子。系図では推古天皇は蘇我稲目の孫、馬子の姪にあたる人物でした。
そして、この推古天皇の二代後に、再び女帝である皇極天皇が即位しています。当時、皇位継承に最も発言力があったのは馬子の子である蘇我蝦夷でした。

そしてこの皇極天皇ですが、このお方は当時の新羅の将軍であった金庾信の娘・宝姫が日本に来て欽明天皇の妻女となったもの、と私は考えます。現存する系図にはまったく書かれていないのですが、金庾信の二人の娘のうちのひとりの名前は宝姫といい、皇極帝の幼少時の名前と一致するのです。
当時の日本と新羅の関係は微妙なものがあり、百済からの渡来人の多かった日本の政権の中には新羅征伐を主張するものが多く、事実、日本軍は何度も新羅まで兵を進めています。そのような状況の中、新羅一国の命運を支えていた名将であった金庾信と日本の大王家の縁組は双方に大きなメリットがあったことは想像に難くありません。

蘇我氏は、馬子・蝦夷の二代にわたって、釈迦族の政権を日本で復活させ、その相続形態をも復活させたと考えられるのです。それはなぜかというと、蘇我氏自体が釈迦族の血を引く一族であったから、としか考えられません。
さらに、金庾信という人物は金官伽耶国の王家の末裔であり、れっきとした許黄玉・金首露夫妻の嫡孫でした。ここにおいて、蘇我氏と釈迦族を結ぶラインがはっきりと見えてくるのです。

・・・話を石仏に戻します。
アジャンタで最初の石仏寺院が作られた後、仏教伝来の道をなぞるように、シルクロード上に石仏寺院が作られて行きます。バーミヤン、亀茲、敦煌、雲崗と、次第に日本に近づいて行き、中国浙江省の霊隠寺、そして朝鮮半島南部の伽耶国、許黄玉ゆかりの清涼寺、金庾信のいた新羅の都・慶州にも石仏が残っています。
蘇我氏の血脈には、これらの石仏を作ってきた石工職人の血が流れていたのでしょう。彼らは仏の姿を、風雪に耐えて長く残る石に刻むことで後世まで仏教を繫栄させることを願い、同時に先祖を祀る意味もあるその仕事にやりがいと誇りを持っていたのでしょう。

乙巳の変の後、蘇我氏は衰退し、次第に歴史の表舞台から姿を消して行きますが、決して滅びたわけではありません。彼らは日本書紀において非常な悪口を書かれた蘇我氏という名を捨て、石川氏と名を変えて生き残ったのです。現代でも石川さんという名前の人は多く、蘇我氏、そして釈迦族の末裔である可能性が高い、と私は考えています。

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