
月の民の足跡⑦ 民族による古代の婚姻政策の違い。
前回、大陸と日本の民族同士が政略結婚を繰り返し、歴史を紡いでいったという話をいたしました。今回はこの政略結婚という行為が、民族ごとにどのような意味を持ち、具体的にどのように行われたのかということを具体的に見て行きたいと思います。
それというのも、民族によって結婚というものの意味合いは微妙に異なるからです。
現代社会はおおむね男系相続であり、日本の皇室をはじめ、ほぼすべての家は男性の嫡子を持って後継者とします。しかし、古代においては必ずしもそうではありませんでした。
アマテラスやヒミコが女性の王であったように、女性が王となり、代々女性の嫡子が王位を継いでゆく形態、すなわち女系相続の民族もあったのです。そして、古代日本においてはむしろこの女系相続の民族の方が多かったようです。
この女系相続を行う制度のことは「大元制(おおもとせい)」と呼ばれます。
現代では女系相続の社会というのはあまり多くありません。南インドのドラヴィダ人の王家が女系相続を行うようですが、その他は少数民族にいくつか見られる程度のようです。
このドラヴィダ人ですが、どうもこの民族こそ日本人の祖先の有力な一部となった民族のようです。
決定的な証拠は日本語とドラヴィダ語が同じ膠着語という、世界でも珍しい言語形態として同じグループに分類される言語であること。また、ドラヴィダ語は朝鮮語にも似ており、これら三つの言語は語順も同じで、かつ数千単語の語彙を共有するという事実です。
つまり、日本語と朝鮮語はドラヴィダ語を母体として誕生しているのです。
この言語の共通性という事実から一つの仮説が浮上します。それは、「古代、日本人の祖先の一部はインドから日本、朝鮮半島に来て、そこで植民を行ったドラヴィダ人だったのではないか?」ということです。
では、古代にインド人がこちらに来た記録があるかどうか調べてみますと、AD41年に南朝鮮の金海に成立した金官伽耶国の初代首露王の王妃・許黄玉が、どうやらインド、サータバーファナ王国の出自のようです。
許黄玉の足取りはかなりはっきりしています。この女性はインド、阿踰陀(あゆだ)国の出身と「三国遺事」に書かれているほか、中国南部に許黄玉の足跡が残り、そのうえ最近行われた王妃墓陵の遺骨の遺伝子分析で、埋葬者はインド南方系と判定されています。
そしてその許黄玉と日本とのゆかりがまた少なからぬものがあるのです。
宇佐神宮の元山(最初に宮が作られたところ)とされている宇佐市南方の山の名前が「御許山」。・・・これは「許氏の山」とも読める名前です。
この御許山の山頂には巨大な磐座があるとされますが、現在は禁制地として立ち入りが禁止され、周囲に鉄条網が張り巡らされており、参拝用の神社がその鉄条網の前に建立されているのですが、この神社の名前が「大元神社」というのです。
・・・もうお判りでしょうか? つまり、この神社は女系相続の伝統を持つドラヴィダ系許氏一族の王女・許黄玉の子孫の女性が宇佐に嫁いできて、死後に祀られた山に建てられた神社だった、と私は比定します。
宇佐神宮周辺は古代、菟狭族という民族が支配しておりました。菟狭国の版図は非常に広く、現在の豊前地方から広島県あたりまでを領有していたようです。
金官伽耶国と菟狭国は互いに重要な貿易相手国でした。金首露王は両国の友好関係の維持を図るため、許黄玉との間にできた王女を菟狭国の王女として送り込んだのでしょう。
これが、宇佐神宮の二の殿に祀られている「比売大君」の正体だと私は考えます。
このヒメノオオキミがなぜ本名でなく、「偉大なる姫様」という敬称のみで伝えられているのか?・・・おそらく、後の世で日本を支配した民族はドラヴダ族とは異なる民族だったからでしょう。ヤマト王権はこの民族の存在を歴史から抹殺したかったのです。
ところで、この「比売大君」は、宇佐神宮の元宮のひとつとされる薦神社(大分県中津市)の御祭神でもあります。この薦神社の由緒書によりますと、比売大君は宗像三女神のことであり、宗像神社の御祭神でもある宗方沖津宮の「田心姫神(タゴリヒメ)」、中津宮の「湍津姫神(タギツヒメ)」、辺津宮の「市杵島姫神(イチキシマヒメ)」と同一神である、と書かれています。
しかし私は、これは違う、と考えます。同一神であれば、わざわざ宇佐神宮と宗像大社という巨大な二つの神社に分けて祀る意味がないからです。
私はおそらく許黄玉の娘、孫娘、曾孫娘というように、許氏の一族の女性は代々日本の王朝と縁組することが慣例化されており、ある女性は菟狭国に嫁ぎ、またある女性は奴国(現在の福岡市)に嫁ぎ、菟狭国に嫁いだ姫は死後、御許山に埋葬され比売大君となり、奴国に嫁いだ女性は宗像三女神となったのではないかと考えています。当時、奴国を支配していた宗像族は海人族であり、半島と日本の交易が彼らの生活基盤でした。宗像の王が3代続けて伽耶国の王女を王妃に迎えたとしても不思議はないのです。
ところで、金官伽耶国が「大元制」の国だったとすると、実質的な王は金首露ではなくて許黄玉だったということになります。また、その娘たちが日本の菟狭国や奴国に王妃として嫁入りするということは、金官伽耶国の王家から見れば実質的にその国を支配したも同然ということになります。実際、その頃の半島と日本は中国の史書において「倭」として同一視されているくらいですから、人種的にも非常に近い親密な国家同士だったのではないかと思われます。度重なる政略結婚が民族の同化を促進し、中国は同一民族と認識するに至ったのでしょう。
また、古代日本では二頭政治制をとっており、男王が政治を、女王が祭祀を担当することが多く、その場合の序列としては祭祀王が政治王より上でした。
そのため、姫様を迎えた日本の国の人々は、お嫁に来た姫様を極めて大切に扱いました。
姫様の死後も神様として祀り、大きな神殿を建てて祭祀を欠かさないようにしたのもその表れです。文字通り、伽耶国の王女は日本で女王になっていたわけです。
比売大君を祀る神社は他にもあり、大分県杵築市の奈多八幡宮、同じく大分県豊後大野市の柴山八幡宮にも祀られています。この柴山八幡宮から奈多八幡宮、宇佐神宮を経由して宗像大社の辺津宮、中津宮、沖津宮と線を結んでゆくと、大分から福岡県沖の沖の島までの古代交易ルートが出現します。その先はおそらく対馬、壱岐、そして金官伽耶国、あるいは新羅だったことでしょう。新羅は伽耶の血統や風習を受け継いでおり、伽耶国が滅ぶ前後の時代、新羅からも多くの姫君が日本に輿入れしているものと思われます。比売大君もあるいは新羅の王女だったかもしれません。
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