倭奴国から筑紫倭国へ(上野俊一 稿)

上野俊一稿

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倭奴国から筑紫倭国へ
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上野俊一

後漢書に記される「倭奴国」。57年に後漢に遣使し金印を下賜された、倭国の極南界に在ったという国、それは一体どんな国だったのだろうか?
「倭奴国」は「倭の奴国」「委奴(いと)国」等、読みも含めて様々な解釈があるが、ここでは倭奴国(わなこく)とさせていただく。
一般には魏志倭人伝に登場する奴国の前身と考えられているが、だとしてもそれは2世紀末の倭国大乱を経た後の姿であり、以前の倭奴国は地域をまとめるより大きな国であったと思われる。
また三国志魏志倭人伝が記す3世紀の主役「倭国」「伊都国」「邪馬台国」は どんな国であったのか? 「倭奴国」とはどう繋がるのか、そこにいたる歴史ドラマを私なりに想像してみた。

甕棺墓から見える「倭奴国」

まず「倭奴国」の成立過程について考えてみた。
北部九州での水稲栽培は弥生早期(前5世紀)九州西北部から始まり、東や南へ拡がったと思われ、当初より護岸の整備や農具の充実など技術的に洗練されていることから、外部からの渡来技術であろうとされる。同時に拡がった支石墓も朝鮮半島西南部と共通し、渡来人が稲作とともに持ち込んだ墓制である可能性は高い。墓制は前4世紀頃から甕棺墓に移行し急速に範囲も広がる。南は熊本、東は飯塚、西は五島まで。弥生中期(前2~前1世紀)には甕棺も大型化し最盛期を迎えるが、弥生後期前半(後1世紀)にはエリアが狭まり、2世紀には激減し、石棺墓等に替わっていった。
この甕棺墓制の盛衰と2世紀末の倭国大乱を倭奴国の時代と重ね、「漢委奴国王の倭奴国」から「王のいない奴国」への時代の変化を見ることはできないだろうか?

「倭奴国」を建てた人々とは?

大型甕棺時代の那珂川市は古墳も多く、倭奴国の一邑を成すと思われる。篠田謙一氏よれば、その安徳台遺跡の被葬者は高身長の渡来系であるが、ゲノムはすでに現代日本人とあまり変わらない。在地の縄文人との混血が長期間あった、あるいは渡来前からすでに混血は進んでいた可能性もある。魏志東夷伝等にも、朝鮮半島の弁韓・馬韓は倭と接していると書かれており、倭人が多く住んでいたと思われるからだ。後漢書の「倭奴国は倭国の極南界」の記事も或いは半島南部と北部九州を俯瞰し、言語と文化を共有する全体を倭国と見たものかも知れない。おそらくはこの倭人の一団が先進の青銅器技術を携えて九州へ渡ってきたのであろう。

「倭奴国」の衰退原因は?

倭奴国全盛期の前1世紀、須玖岡本遺跡の王墓からは30面近い漢鏡が副葬されていたが、同時代の伊都の南小路王墓からは后墓も併せて漢鏡57枚と引けを取らない。当時はこの二大勢力が並立していたと思われる。
後漢書に依れば107年に倭国王帥升が漢に朝貢し生口160人を献じている。他書には倭面土国王などと書かれるが、或いは倭奴国から権力の移行があったのかも知れない。仮にそうだとすれば、彼は後の伊都国勢力の王である可能性が高い。
倭奴国の崩壊は2世紀末に起こった倭国大乱の結果と見る。当時中国でも黄巾の乱が起こり、漢が衰退、永い戦乱の時代に突入する。ニュージーランド・タウポ火山大噴火による冷夏凶作が広範な社会不安を引き起こしたとも言われる。大乱の結果、伊都国が倭奴国に勝利したすれば、弁韓伽耶勢力と繋がりを持つ伊都国の鉄製武器の調達能力が、性能や生産量で劣る銅製武器に勝ったということであろうか。

「伊都国」対「邪馬台連合」

大乱後の版図は、福岡平野以北の各国を伊都国が傘下に収め、倭奴国は王が廃され「奴国」と改称する。奴国は農業・工業の生産地に特化される。
勢いを増す伊都国勢力に対し、筑紫平野や周辺山麓に散在するクニグニも対策を急いだ。彼らは連合して邪馬台国を建て共立女王を擁し北部に対峙する。余傍国に多い○奴国は旧倭奴国勢力の分解した名残か?

彌奴國 姐奴國 有蘇奴國 華奴蘇奴國 鬼奴國 烏奴國 狗奴國

奴国・不弥国の南、邪馬台国国境の国々を比定してみた。北部勢力の南進を恐れ、水城位置には2~3世紀頃から土塁があった可能性がある。


北部と南部が対峙した境目は現在の二日市あたりか。東西に山がせまり、防衛線を張るのに適した地勢である。ここには太宰府を守るため水城も築かれた。幅1.2㎞、高さ9m、外濠を備えたもの堂々たる城壁である。ただしそれは白村江敗戦の翌年664年のこと。
しかし実はその400年前、既にここに土塁が築かれていた可能性もあるのだ。その痕跡は水城の最下部に作られた敷粗朶(しきそだ)にある。敷粗朶は軟弱地盤の水はけを良くし、土塁の崩落を防ぐ為に基礎部に木の枝の層を敷き詰め、それを何層か重ねるものだが、その中の三層からサンプルを採り、C14炭素年代測定を試みたところ、上層は510~730年と妥当な年代であったものの、中層は300~500年、最下層はなんと100~300年という結果、弥生終末期を示したのである。つまりここに土塁が築かれ、南北の障壁か関所としていたとも考えられる。

「倭国連合」の誕生

しかし対外的には国内の安定は必須、南北の勢力が拮抗したところで両者は連合し対外的に倭国を称したと考える。邪馬台国女王のヒミコを倭国の祭祀王とし、伊都国王が政治的実権を握る。
以上はあくまでも仮説である。しかし倭人伝を読めば、筑紫倭国は必ずしも一体では無く、南北には別個のガバナンスがあるように感じないだろうか? つまり北の国々には官を置き戸数を把握し、伊都国常駐の大率による厳格な検察体制が敷かれているのが分かる。伊都国で一元管理しているからこそ郡使も容易に見て取れた。各国の戸数はおそらく納税者(生産者)戸数──そう考えると伊都国の千戸という少なさは、伊都国王室と官と軍兵でほぼ構成されているとすれば合点がいく。それらに比して、女王国以南の20ヵ国については遠く隔たって詳細は分からないという。つまり南部には伊都国の行政ガバナンスは届かず、女王が直接に支配していたのだ。それが邪馬台国である。
私は北の伊都国グループは魏に倣った中央集権的郡国制、南部の邪馬台国はより独立した諸国の連合体と見る。ヒミコが諸国連合の共立女王であれば、それは領土を持つとは限らない。いわゆる女王国は邪馬台国の中にあるが、有形的には倭国の都(宮処)を指し、無形的にはその権能を指すと見た方が良い。伊都国はじめ北の国々は女王国に統属されるが、邪馬台国に統属されているわけではない。(完)

上記の論考は、上野俊一さんの長年にわたる主張の整理といったかたちになります。

以上の論考を踏まえて上野氏は、その論旨の方向性を以下のように位置付けています。

まず、ご覧ください。

ご承知のように「日よ、西から昇れ」は安本説を土台にしています。
小説なので、そこからかなり踏み込んで状況を細かく設定。
つまり倭国のかたちを、委奴国を滅ぼし地域の覇者となった伊都国、それを盟主とする北部グループ、それに抗する形で南部諸国が連合を組み日御子を擁立し邪馬台国を称した南部グループ、その仲介的立場の豊前を本拠とする豊麻国(投馬国)グループの三者連合としています。
伊都国の旧主は日御子を象徴的倭王(祭祀王)とし、自らを政軍を専権とする大率とすることで、倭国の実権を握ります。名より実を取ったのですね。
その子スサノオは魏に遣使し日御子を親魏倭王に仕立て上げます。彼は韓半島にかなりのコネクションと情報網を持っていた、つまり外交力があったと考えています。
さらに、鉄資源を狙って遠賀下流域に勢力を拡げ、また最も鉄資源が期待できる出雲に国譲りさせたスサノオは、しかし日御子(アマテラス)亡きあとの倭国後継者争いで、台与を擁立する旧邪馬台国と豊麻国グループに破れ、筑紫を去り本拠地を出雲に移します。スサノオの子であるニギハヤヒはさらに丹波、播磨、若狭、河内、近江へと勢力圏を拡げていきます。
伊都国水軍中核を失った倭国が弱体化する中で、東を狙って瀬戸内連合化を進めていた豊麻国にとっては忸怩たる思い。そこで親魏倭王アマテラス日御子の後継台与を担ぎ、瀬戸内勢力を糾合し、河内を目指します。いわゆる神武東征、ボクは崇神に置き換えていますがね。
しかし当初アマテラスを宮中で祀っていた崇神は、その斎宮台与を追放、代を経て皇祖神の座はアマテラスからタカミムスビへと置き換えられていきます。まーそうなります。

読者の皆様には

安本先生の講演を動画で見てもらえます。

こちらから⇨

上野俊一さんの以前の投稿は、こちら⇨

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