アマテラスはいつの人?(上野俊一 稿)

上野俊一稿

アマテラス(天照大神)が実在したとすれば、一体いつ頃の存在か?
その推定の手がかりのひとつが、鏡である。

■注目すべき籠神社の鏡
まずアマテラスがニニギ(瓊瓊杵尊)が降臨、任地に天下りする際に授けたという鏡がある。最終的に伊勢神宮に安置されたというご神体の八咫鏡を調べれば、その製造年代、渡来年代の推定は可能と思われる。だが今のところそれは天皇さえ見ることが叶わない。
だがもう一つ、アマツカミミオヤ(天神御祖=皇祖神)がホアカリ(天火明命=饒速日命)が東遷する際に授けたという鏡が元伊勢籠神社(このじんじゃ)に安置されている。これはその姿が写真で広く公開されている。それは辺津鏡(へつかがみ)と息津鏡(おきつかがみ)と呼ばれる二面の内行花文鏡だ。漢鏡の製造時期の推定は「洛陽焼溝漢墓の時期別出土鏡」との対応から可能である。照合すれば、辺津鏡は日光鏡・昭明鏡系統の外帯に銘文を配した前漢晩期のもの、息津鏡は鈕回りに「長宜子孫」を配した後漢晩期・三国時代のものと考えられる。
そうするとホアカリが鏡を授かった年代は少なくとも後漢・三国時代より古くは無いことになる。
この二面の鏡は籠神社の創建時からの宮司家である海部氏が伝世していたものとされ、国宝の「海部氏系図」の勘注系図にも記載されている。
なおアマツカミミオヤは、タカミムスビとアマテラスの両者を指すと思われるが、彼らはほぼ同時代人である。記紀の記述では、アマテラスもしくはスサノオの息子とされるオシホミミは、タカミムスビの娘トヨアキツの婿だからだ。
創世記に造化三神の一柱としてタカミムスビが登場することで、他とかけ離れた古代イメージを持つ向きがあるかも知れないが、それはあくまで形而上学的神話であって、編年的な解釈にはそぐわない。
(図1)(表1)

■平原王墓の鏡との類似
ところで糸島市の平原一号墓では40面の銅鏡が出土したが、その中の16号鏡と呼ばれる内行花文鏡(長宜子孫鏡)が籠神社の息津鏡に酷似する。大きさは異なるものの、構成する文様要素の一つ一つがよく似ている。雲雷文帯の渦文は右巻き、松葉文は右下がり、連弧間の文様も似ている。
同じ内行花文鏡(長宜子孫鏡)であれば似るのは当然と言われるかも知れないが、要素レベルで酷似するのは稀なことのように思われる。想像するのは同一工房で同時期に製造された可能性である。
平原一号墓は原田大六氏が被葬者を大日霎貴(おおひるめのむち)つまりアマテラスの推定する墓であるが、私はすなわち卑弥呼の墓の可能性もあると考える。平原一号墓の鏡も籠神社の鏡も、そしておそらくは伊勢神宮の鏡も、魏国から卑弥呼が下賜された銅鏡百枚の一部ではないかと想像するのだ。
(図2)

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