蘇我氏の正体⑮ 蘇我善徳は善徳女王である。(佐藤達矢 稿)

佐藤達矢稿

蘇我氏の正体⑮ 蘇我善徳は善徳女王である。

632年、歴史上初の女帝として、新羅国に善徳女王が即位します。
「善徳」という諡には「釈尊の十善戒を守り抜く徳を備えた人物」という意味が読み取れ、この人物が仏教徒であり、それも大乗仏教ではない、お釈迦様が直接説いた原始仏教の信者だった可能性を感じさせます。

また、この人の母親の名前は「摩耶(マヤ)」といい、お釈迦様の母親と同じ名前です。
つまり、善徳女王はお釈迦様・釈尊に模せられているのです。

そして、この人が即位した背景には蘇我氏の暗躍があり、蘇我氏はこの時、釈迦族の王国を復活させようと試みていたフシがあるのです。
以下、順にご説明いたしましょう。

善徳女王の時代、日本では「蘇我善徳」という人物が誕生しています。
蘇我善徳は蘇我馬子の長子で、法興寺の寺司となったとだけ、日本書紀に記されています。
もしも、この蘇我善徳が「善徳女王」であったなら?・・・。
生存年代を比べて見ましょう。善徳女王は生年不明。即位が632年。没年が647年。
一方の蘇我善徳は生没年不明ながら、法興寺の寺司になったのが596年と書かれています。

この二人が実は一人の人物であったとするならば、・・・。仮に596年に20歳であった蘇我善徳が法興寺の主になったとすると、632年・58歳のときに新羅国王となり、647年・71歳の時に新羅で死んでいる、ということになり、年齢的には齟齬がありません。むしろ、非常に自然な流れです。

日本書紀には蘇我善徳が男であったという記述はありません。だからこの人物は女性であった可能性も否定できません。
また、蘇我善徳は蘇我蝦夷の兄であったという説もあり、次男であった蝦夷が蘇我の本宗家を継ぎ、善徳が継がなかったという理由も、善徳が女であったから、と考えれば整合性が出てきます。

ところで、善徳女王即位に遡ること35年、593年には日本初の女性天皇・推古天皇が即位しています。この女帝を即位させたのは石川麻古(蘇我馬子)。麻古はなにゆえ、当時はありえなかったはずの女性を天皇に即位させたのでしょうか?

この時代はすでに男尊女卑の気風が生まれていました。現実に新羅では善徳女王即位後、唐から「女帝はよろしからず」との通告が何度も下っており、この意見を支持したピダムという上大等(現代の首相に相当)の反乱も起こっています。
女性を王の地位に置くことはそれほどの危険をともなう行為だったわけですが、麻古はそれを強行しました。そして(私の仮説通りなら)長女の善徳を新羅に送り込み、新羅王として即位させた・・・。

麻古の手により、日本と新羅の両方に、歴史上初の女帝が出現したわけです。
麻古がこのようなことを強行した理由は、「麻古が釈迦族の血を引いていて、釈迦族の政権を取り戻そうとしていたから」だと、私は推測します。
と言いますのも、じつは、釈迦族も代々女系相続の家系だったからなのです。

釈迦族という一族は特殊な相続形態を持っていて、女系相続であると同時に「女性相続」の家柄でもありました。
「女性相続」とはどういう形態かといいますと、「王位は必ず、母親から実の娘に引き継がれなくてはならない」というルールのもとに相続される制度です。

これは、ミトコンドリア遺伝子という名の特殊な遺伝子があり、それは女性から女性にしか遺伝しないため、この遺伝子を伝えて行くことは母親から実の娘にしかできず、それ以外の手段でできた子供には相続権がない、という考えをするものです。
この女性相続の掟は古く、エジプトの古王朝時代に発生し、なぜかお釈迦様の頃のインドで、釈迦族の社会にも引き継がれていたのです。
そして、日本ではなぜか、この蘇我氏の時代に、それが発生しているのです。

皆様も、聖徳太子の周辺の血縁関係を示した系統図を見て、この時代に近親婚があまりにも多いことに気づき、その意味がわからずに不思議に思われた経験があると思います。
それは、釈迦族の相続についての考え方を引き継いだものだったのです。
石川麻古(俗名:蘇我馬子)は、長男・雄正(俗名:蘇我蝦夷)に日本での大臣位を継がせ、長女の善徳を新羅王として送り込んだのでした。

麻古の曾祖父にあたる蘇我韓子は、名前の示す通り、おそらく蘇我家と新羅王室の王女の間に出来た子供であり、麻古は新羅王室の親族筋でもありました。
蘇我韓子は生前に新羅征伐を命じられていますが、新羅と戦矛を交える前に仲間割れして日本の将軍に殺されています。
その曾孫の石川麻古もまた、朝廷の命で二度ほど新羅に出兵しておりますが、新羅を威嚇しただけで、一人の新羅人を殺すこともなく帰国しています。

ここまで私の投稿をずっとお読みいただいている方々はもうお気づきでしょうが、蘇我家(石川家)は日本海方面の貿易の利権を一手に担い、対新羅貿易で莫大な利益を得ていたために、貿易相手である新羅を攻撃することにためらいがあったのです。そして、それよりもなによりも、新羅王家は蘇我氏の親族であり、また、同じ仏教徒として、お釈迦様の教えの基本である「不殺生戒」を守ろうとしていたのでした。そして、当時の新羅は法興王以来、一大仏教国となっていました。同じ仏教徒であった蘇我氏が手出しできるものではなかったのです。

しかし蘇我氏は、そばにいた推古天皇のほうは自身で補佐できたものの、新羅に送り込んだ善徳のほうは自由なコントロールができませんでした。
632年の善徳女王即位に先立つ626年、麻古は没します。

麻古の息子である雄正(蘇我蝦夷)が生まれたのが586年頃とされていますので、善徳女王即位を演出したのは雄正だったと思われます。彼は父の遺志を継ぎ、姉である善徳を新羅の王に据えたのでした。当時の日本と新羅の力関係はそれほどに日本のほうが強く、新羅は毎年日本に朝貢しておりました。この時代の日本は新羅を滅ぼそうと思えばいつでも滅ぼせたくらい強かったのですが、蘇我氏が身命を賭してそれを阻止していたのです。
新羅王家が蘇我家から王を迎えたのも自然な成り行きでした。

この当時、唐の王朝は日本国王を「多利思比狐」と呼んでおり(「隋書」による)、この王はヤマトの大王ではなく蘇我馬子(麻古)だと、一般的に考えられています。この時代における蘇我氏の力はそれほどまでに大きく、実質的には蘇我氏が日本を支配していたとも言えます。

その蘇我氏が陰謀によって滅ぼされたがゆえに、日本と新羅は完全に決裂し、白村江の戦いへと、日本は敗戦への道を歩み始めることになります。滅ぼしたのはもちろん、蘇我氏と敵対していたあの一族でした(続く)。

(写真は韓流ドラマ「善徳女王」より)。

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