蘇我氏の正体⑭ 蘇我氏と新羅は仏教で結ばれていた。(佐藤達矢 稿)

佐藤達矢稿

蘇我氏の正体⑭ 蘇我氏と新羅は仏教で結ばれていた。

前回、蘇我氏はヤマト王権と新羅の関係を取り持つ調整役として重要な役割を果たしていた、ということを申し上げました。今回はそのことを具体的に見て行きます。

514年、新羅に法興王が即位します。「三国史記」では「法興大王」と書かれているほど新羅という国の歴史の中でも屈指の名君です。「法興」という言葉には「仏教が興隆する」という意味があり、この諡の示す通り、法興王は仏教を新羅に根づかせた大功労者です。
この法興王の時代から新羅という国は仏教が興隆し、大仏教王国となって行きます。

一般的には仏教は百済から日本へもたらされたと思われていますが、実は新羅からもたらされている部分も大きく、たとえば日本初の本格的な仏教寺院の名は「法興寺」と名づけられました。その法興寺を建立したのは蘇我稲目(正しくは石川稲目)。ここにも蘇我氏と新羅の親密な関係が見て取れます。

520年、法興王は律令を領布。百官公服の朱紫(高貴な服飾)の順序を制定します。
これは日本では聖徳太子が行ったとされている冠位十二階の制定にあたるもので、その制定が603年であることから、日本は新羅より80年余り遅れて、法興王に習って律令政治の道を歩み始めたと考えられます。このことも一般的には唐の政治形態から学んだというように考えられていますが、新羅から伝わったと考えたほうが自然です。

また、聖徳太子が蘇我氏であること、太子とともに冠位十二階を制定したのが蘇我馬子(正しくは石川麻古)であることは、冠位十二階という考え方も蘇我氏が新羅から学んだものを日本風にアレンジして制度化したものと考えられます。法興王以降の新羅には十七等冠位というものがあり、内容は日本の冠位十二階に酷似しています。

526年、法興王は初めて仏法を行う、と「三国史記」にあります。
一般的に日本で「仏教公伝」がなされたとされるのが552年。これは百済から仏像と経典が正式に日本政府に贈られたという「モノの伝播」をもって公伝としているわけですが、実際にはその前から仏教僧は日本にやってきて教えを説いていましたし、福岡県糸島の千如寺などはそれよりずっと以前から存在していたようです。
法興王の時代以降、新羅、百済、高句麗といった国には仏教の名僧が多数輩出しました。
新羅だけでも元暁・義湘・慈蔵ら、日本でいえば後世の空海・親鸞クラスと言えるような高僧・名僧がこの時期の新羅には多数いたのです。

彼らは時に、国王からも上座を譲られるほど丁重に扱われ、日本に来訪したときは国賓待遇で迎えられました。彼らの主たる話し相手は大王家(天皇家)の人々、そしてそれを取り巻く大臣・大連たちです。当然、蘇我氏の一族も彼らから仏教を学んだことでしょう。
蘇我氏がその一族の全財産を仏教興隆につぎ込み、やがては滅亡するほどに全力を傾けて日本への仏教伝播を図ったのは、こうした名僧たちの影響もあったものと思われます。

もう少し具体的に見て行きましょう。
蘇我氏がヤマト王権の中で財政の権力を握った時期はたいへん古く、武内宿禰の孫にあたる蘇我満智(AD400年前後の人か?)の頃、すでに三蔵検校(現在の財務大臣に相当)に任じられています。
満智、という名前がすでに仏教っぽいので、この時期の蘇我氏はすでに仏教徒だった可能性が高いと思われます。

その子・蘇我韓子のとき、韓子は新羅征伐を命じられ、新羅に出陣して戦っています。
日本書紀によりますと、この戦で韓子は同じ日本軍の将軍と仲違いして射殺されたことになっています。
・・・少し穿った推察をいたしますと、親新羅派であった韓子が戦いを止めさせようとして他の将軍と意見が衝突し、殺されたのではないか?・・・と私には思えます。

「韓子」という名前には「母親が朝鮮半島の人である」という意味があります。一種の蔑称とも思われ、こんなところにも日本書紀の蘇我氏への悪意が見て取れるのですが、重要なのは、この時、すでに蘇我氏の正宗家が新羅から正妻を迎えていた、という事実です。
韓子という名前がそれを証明しています。

その韓子の子供の名前が「蘇我高麗」。・・・ここにも日本書紀の悪意が見えますが、言葉の意味からは、高句麗出身の母親を持つ子供であったことがうかがえます。
蘇我氏の婚姻政策は多岐にわたっており、ほかにも蘇我武蔵、蘇我日向、蘇我蝦夷など、さまざまな地域に婚姻関係を築いていたことがうかがわれます(必ずしも母親の出身地を指すのではないようですが、その人に縁の深い土地の名前で呼ばれています)。

韓子の子供が蘇我稲目ですが、この稲目は正式には石川稲目というのが本名で、巨勢家から石川家へ婿入りした人物であるようです(斉木雲州氏による)。
斉木説を採るなら、稲目以降の馬子、蝦夷、入鹿は蘇我家とは関係がない、ということになるのですが、「新撰姓氏録」には「稲目は石川宿禰の4世孫」とあり、もともと石川家とは畿内の石川という土地に蘇我氏の一族が移り住んだことから始まっているようですので、蘇我氏の分家と考えても良いかと思われます。

稲目の晩年・552年に仏教が公伝。
その前年の551年に蘇我馬子(石川麻古)が誕生しています。
われわれは日本書紀の影響でこの蘇我馬子を世紀の大悪党のように認識していますが、実際にはそんな人物は存在しておらず、馬子の名で語られた石川麻古は仏教を根付かせた大恩人であり、新羅における法興王と言えるようなポシションにあります。

麻古は572年に大臣となり、580年に法興寺を建立しています。
そして、朝廷の命を受けて591年と623年に新羅へ出兵しておりますが、いずれも新羅軍と戦うことはせず、軍を進めて新羅王に問責、朝貢を促すことに留めています。

・・・こうしてみると、代々の蘇我氏がいかに新羅と親密であり、新羅という国をいかに大切に扱っていたか、ということがお分かりいただけると思います。
そして、麻古から雄正(蘇我蝦夷)の時代にかけて、蘇我氏が釈迦族の末裔であることがはっきりわかるような事件が発生します。
それは「初の女帝の誕生」という事件でした。(続く)。

(写真は蘇我馬子像。日本の歴史上最も名誉を棄損されている人物。本名は石川麻古。)

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