蘇我氏の正体⑨ 斉木雲州氏説による大化の改新の実像(佐藤達矢 稿)

佐藤達矢稿

蘇我氏の正体⑨ 斉木雲州氏説による大化の改新の実像

今回も引き続き斉木雲州氏の「上宮太子と法隆寺」から、蘇我氏と呼ばれた一族の実像を追って行きます。

尾治大王(推古帝の後に大王として即位した幻の天皇)が山背王を大兄(後継者)に指名した頃、それを快く思わない人物がいました。それが田村王(のちの舒明天皇)です。

田村王には中臣御食子(鎌足の義父)という友人がいました。中臣家は常陸国鹿島神宮の元神官・卜部家の分家でした。

中臣御食子は田村王に謀略を授けます。

「石川家(日本書紀では蘇我家と書かれている)の大物を一人ずつ誅殺して行けばよい。そのために、まず宝姫と結婚し、息長派をまとめなさい。」

息長家の血統であった宝姫はこのとき、石川武蔵という人物に嫁いでいました。田村王にとっては姪にあたる人物でしたが、強引に武蔵と離婚させ、息長家の血を濃くすることを狙いました。

628年、田村王は病床に伏していた尾治大王を見舞い、そこで大臣の石川雄正(記紀で蘇我蝦夷と書かれた人物)に、自分が次の大王になると告げました。

石川麻古の弟・境部摩理勢はこれに反対し、山背王こそ後継者であると主張しますが、魔理勢は直後に御食子から殺されます。

同年、尾治大王が没し、田村王が王位に就きます。これが舒明天皇です(記紀の系図では推古帝の次が舒明帝ですが、実際には尾治大王という幻の天皇がいたことにご注意ください)。

641年、石川雄正の豊浦の邸宅を葛城皇子と中臣鎌子が襲い誅殺します。このことは日本書紀に書かれていません。

中臣鎌子(のちの藤原鎌足)は本名・占部鎌子。常陸国鹿島神宮の出身で、中臣御食子の養子となった人物でした。

葛城皇子は石川雄正攻撃の功により大兄(後継者)に指名され、中大兄を名乗ります。

しかし、このときにはすでに古人大兄という大兄がいました。

大兄が二人いたので後継ぎが決まらないまま大王が没し、二年後に皇后が即位して皇極女帝となります。

この頃、中臣鎌子は女帝の弟・軽王の宮で働いており、軽王に気に入られてその采女を与えられます。しかしそのとき采女は軽王の子を身ごもっており、やがて軽王にそっくりな男児が生まれます。鎌子はその子を中臣家の長男として育てることになります。

643年11月、山背大兄王の住む斑鳩の宮を中臣鎌子の軍勢と思われる部隊が取り囲みます。山背王は生駒山に逃れますが、数日後に「戦えば勝てるかもしれぬが、万人を軍役に使い、勝つことは望まぬ。わが身を捨て、国を安定させるこそ人の道ならずや」と言って斑鳩宮に戻り、自殺します(ここも日本書紀では蘇我入鹿が殺したことになっています)。

このとき、上宮太子と石川麻古が書いた「天皇記」と「国記」も斑鳩寺とともに焼失します(日本書紀では蘇我蝦夷が焼いたことになっていますが実際は鎌子の仕業です)。

このあたり、日本書紀に書かれた「乙巳の変」の記述と大きく異なっています。

斉木雲州氏によりますと、日本書紀で蘇我蝦夷という名前にされた石川雄正は641年に他界しており、乙巳の変が起きたとされる645年には存命しておりません。

また、同じく日本書紀で蘇我入鹿とされた石川林太郎は645年以降も生き続けています。

実際に「エミシ」とか「イルカ」という人は存在しなかったと、蘇我家本宗家である越前蘇我国造家でも伝承しているそうです。もともと、こんな名前が地位ある人の人名であるわけがないのです。
ところで、皇極女帝は自分の産んだ中大兄を大王にしたいと考えました。

しかし、彼はまだ若く、序列から行くと古人大兄皇子のほうが有力でした。

怪しい気配を察した古人皇子は出家して吉野に入ります。そして645年、軽王は即位して孝徳大王となります。

孝徳大王は中臣鎌子を内臣という側近の地位に据え、年号を大化と改めます。

孝徳大王と中大兄は協議して、古人皇子が謀反を企てたという噂を広めます。そして645年9月、中臣鎌子が吉野に兵を進め、古人皇子を斬ります(鎌子の悪行がいくつあるのか数えてみてください。日本書紀ではこれらがすべて隠蔽されています)。

これで石川臣麻古という重臣と、山背大兄、古人大兄という大王候補者二人が同時期に殺されたことになります。

孝徳大王は彼らの遺臣からの暗殺を怖れるかのように、難波の子代、蛙行宮と行宮を転々とします。日本書紀に記されているように大化の改新などを行う余裕はなかったようです。

649年、中臣鎌子の軍が石川山田麿を襲い、自害させます(つまり、藤原鎌足が蘇我氏の後継者を殺したということです)。山田麿は石川雄正に代わって実力となっていた人物でした。彼の住んだ場所は浄土寺と言い、後年山田寺と呼ばれるようになりました。

山田麿の弟・石川武蔵は筑後太宰府の帥に任じられ、中央から遠ざけられます。これで石川家のほぼすべての人物は処理されました(鎌足のクーデタの完成です)。

650年、年号が白雉と変えられ、白雉の改新が始まります。唐へ留学した高向玄理や南渕請安らが帰国し、唐の政治を見習う動きが現れ、徐々に中央集権が進められます。

これらの歴史的事実が「大化の改新」というフィクションに変えられて日本書紀に書かれたのですが、人物も架空の人に変えられ、時期もずれていますし、入鹿首切り話などという創作も多々挿入されており、なんとも酷い改ざんと言わざるを得ません。日本書紀に書かれた「大化の改新」は壮大な架空小説であり、真実の歴史を題材にしながらも、原型をほとんど留めないほどに作り変えられた創作物語なのです。

そして、斉木氏の説に従うならば、藤原鎌足こそは自己の欲望のために手段を択ばなかった悪党であり、その犠牲になったのが、身命を賭して生涯を仏教興隆のために捧げた石川氏一族という尊い一族であった、ということになります。

歴史は常に、勝者の手によって作り変えられる運命にあります。われわれはそういう物語を鵜吞みにせず、よく考えながら古文書の記述を吟味する必要があります。たとえそれがどんなに有名な書物であっても・・・。

(写真は藤原鎌足像)

コメント

タイトルとURLをコピーしました