蘇我氏の正体⑧ 幻の天皇 尾治大王(佐藤達矢 稿)

佐藤達矢稿

蘇我氏の正体⑧ 幻の天皇 尾治大王

 前回まで、聖徳太子と蘇我氏(斉木雲州氏の説では上宮太子と石川氏)がどのように仏教興隆に取り組んで来たか、ということをお話しいたしました。今回は引き続き、斉木氏の「上宮太子と法隆寺」から、前回の続きをまとめて行きます。

 上宮太子は大王として即位したのち、「今後は大きい古墳を作らず、氏寺を建てるのが良い」と述べ、大蔵係であった秦河勝がそれに応えて山城国に蜂岡寺を建立します。このときから古墳の数は大きく減少し、代わりに寺が増えて行きます。

 一方この頃、推古帝は冠位十二階を制定し、それまで家柄に応じて支払われていた官給を位階に応じて払う、という改革を行います。(聖徳太子ではなく推古天皇の発布であることにご注意ください。また、この時の最高官位である大徳という地位には石川臣雄摩侶という人物が就いており、推古帝のブレーンもまた石川家の人物であったことがわかります)。

 604年、推古帝は息子の尾治(おわり)皇子に大王の位を譲り、尾治大王が誕生します。この大王もまた、日本書紀には即位したという記述がありません。幻の天皇です。

 冠位制定の効果か、群臣は尾治大王のほうに集まり、上宮大王は孤立します。

 一方、崇仏派も俳仏派も多く集まった尾治大王は、あらゆる宗派に共通する規則を作ろうと考え、「管理訓戒十七条」を策定します。これがのちに「十七条憲法」と呼ばれるものですが、斉木氏は「これは官吏に対する訓戒であって国民全体に関わるものは少ないから憲法ではない」と言っています。つまり、憲法が制定されたというのは誤りです。

 そして、この訓戒の中で重要だったのは、第九条の「国に二君なく、民に両主なし」という一文でした。明らかに上宮太子の反乱を治める意図が見えます。

 こうして政権に手出しできなくなった上宮太子は、以降、仏教研究に専念することになり、604年に橘寺を建て、609年には勝鬘経疏という仏教の解釈書を著します。

 尾治大王が仏教にも寛容な大王であるとの評判が海外にも伝わり、605年、高麗王から新任祝いとして黄金300両が贈られ、法興寺伽藍の拡大を望まれました。

 四天王寺のご祭神はもともとヒンドゥー教の神であったため、本来のご本尊であるお釈迦様に戻す狙いがあったようです。
 このとき作られたのが丈六の金銅釈迦座像で、製作者は仏師・鞍作止利とされていますが法興寺にこの仏像が安置されたことによって、日本において初めてお釈迦様をご本尊として仰ぐ、本来の仏教が成立したと言えます。

 また、鞍作止利は607年、薬師如来坐像を作って坂田尼寺に鎮座せしめますが、この薬師座像の光背銘には歴史上初めて「天皇」の文字が使われたということです。尾治大王を天皇とし、上宮大王を東宮大王と書いていることから、天皇という名称は尾治大王と上宮大王の地位を明確に区分することを目的に作られたもののようです。

 607年、尾治大王の命により、小野妹子が隋に派遣されます。遣隋使の始まりです。

 このときの日本の国王のことを「隋書」では「多利思比狐」と書かれています。多利思比狐とは尾治大王のこと。上宮大王ではありませんでした。

 613年、推古帝が死去、627年には石川臣麻古が他界します。斉木氏は日本書紀の記述する年代には誤りがあると指摘しています。そして、日本書紀には尾治大王の名前は登場しませんでした。斉木説を信じるなら、仏教はこのお方によって日本に定着し、興隆したと言えます。

 一方、上宮太子は609年に勝鬘経疏を完成させた後、612年に維摩経疏を、614年に法華経疏を著します。これは隋や高句麗などの外国に対して、仏教精神が日本でも正確に理解されたことを示すものとなり、大きな意味を持ちました。

 続いて太子は「天皇記」と「国記」という、日本最初の歴史書を書き著します。おそらくは記紀とは全く違う物語が語られていたであろうこの歴史書は後日、蘇我蝦夷の手で燃やされて灰燼に帰したと日本書紀に書かれていますが、ほんとうは誰が燃やしたのか、それは言うまでもないことだと私は考えています。蝦夷が燃やすはずがないのです。

 622年、上宮太子は没します。毒殺された、という説もあり、墓は叡福寺という寺の敷地内とも藤ノ木古墳とも言われますが、はっきりしません。生前、大きな古墳は作らないように指示をされたお方でしたので、その墓も小さなものだったのでしょう。

 太子の息子の山背王は父の遺志を継いで斑鳩寺を建立します。これが後に法隆寺という大伽藍を持つ寺になって行くわけですが、そこに安置された釈迦三尊像の本尊のお顔は上宮太子をモデルに作られているそうです。

 上宮太子の没後、尾治大王は山背王を後継に指名し、山背大兄王が誕生します。 
 山背王は斑鳩寺に五重塔や講堂を建て、現在の法隆寺の大伽藍をほぼ作り上げたほか、中宮寺をも建立して仏教の普及に務めます。

 625年8月、石川麻古が病床に伏します。このとき麻古の関係者1000人が出家したと「上宮法王帝説」に書かれており、麻古の影響力の大きさがわかります。

 627年6月、麻古死去。記紀に「蘇我馬子」という偽名で書かれた人物の死去です。

 なお、馬子の墓は石舞台古墳だと言われていますが、斉木氏によるとそれは用明天皇の御陵だということです。また、蘇我入鹿の首塚と呼ばれる飛鳥寺の塚は寺の住職の墓で、馬子・蝦夷・入鹿と呼ばれた蘇我家三代(本名石川麻古・雄正・林太郎)の墓は磯長谷の南の平石古墳群にあるそうです。

 ・・・斉木雲州氏がどうしてこのようなことまで細かく知っているのか、本当に不思議ですが、言われてみれば平石古墳群は磯長谷古墳群のすぐ近くにあり、その磯長谷古墳群こそ敏達・用明・推古・孝徳の四人の大王の御陵とされる墳墓のある場所ですから、その近くに重臣の墓があるのは自然なことです。
 なお、用明天皇の御陵は初めに石舞台古墳に作られたのち、磯長谷古墳群へと改葬されたようです。

 すべては斉木雲州氏の本に書かれてあることなので、あくまで一人の学者の提唱する仮説ととらえるべきものでしょうが、瞠目すべき驚愕の仮説と言わざるを得ません。斉木説のほうが日本書紀の不自然な記述より、はるかに歴史的整合性が高いのです。

 私は斉木氏のこの「上宮太子と法隆寺」という本を読んで、目からウロコが何枚も落ちた気がします。同時に、石川家三代と尾治大王という、史書に書かれなかったものの仏教の興隆に力を尽くした尊貴なる存在に手を合わさずにおれません。

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